「平成28年」タグアーカイブ

6月3日 句会報告

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6月1回目の句会が行われました。 今回の兼題は「冷房・鯵(あじ)」というユニークな取り合わせでした。 両題とも生活に即したもののため、作句しやすそうですが、裏を返せば短絡的にもなりがち…なかなか手ごわい季語です。 まずは今回の高得点句から。 鯵焼いて小津の映画のなかにゐる            山本正幸 「鯵を焼きながら小津映画を思い出し、優しい気持ちになっている作者が思い浮かぶ」 「映画に入り込んでいるというところが面白い」という意見がありました。 恩田侑布子からはこの句について次のような指摘がありました。 「発想はいいし、これが連句の平句であれば、分かりやすく展開が楽しみなものになる。が、“俳句”なので、切れがほしい。」 “切れ”が最大限活用された名句として、中村草田男の  「松籟や/百日の夏来たりけり/」 などを例句として挙げられました。 続いて、今回の句会で話題に上がった句です。 鈴蘭や背中合わせに過ぎしこと            松井誠司 「蘭の花の群生は確かにそれぞれ視線はちぐはぐで、その様子を『背中合わせ』と表現したことが面白い」という意見が多く出ました。 その背中合わせの様子を「若い男女のデートの待ち合わせ風景」と感じた方や、「背中の丸まった老夫婦」と感じた方もいました。 恩田侑布子は、 「最後の『過ぎしこと』の“こと”がどうにかなると特選句。亡くなった妻を偲ぶ句でしょう。 楽しく幸せだったはずの月日を、忙しくて背中合わせに過ごしてしまった。もっとたくさん触れ合えばよかったのに。 もっと心を受け止めてあげられればよかったのに。時間が悠久と思えた時代の懐かしさと切なさを感じた」 と、鑑賞を寄せました。 次回の兼題は「サングラス」「夏の夕(夏夕べ)」です。 これまた生活に根差した兼題ですが、見たままを再現するだけの句にならないよう、気を付けながら作句したいと思います。 (山田とも恵)

6月3日 句会 特選句鑑賞

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六月の第一回目の句会が行われました^^ 今回の特選句をご紹介いたします。なんとも美味しそうな、元気の出る作品です!  なお以下の写真は、恩田侑布子の手作りの、新茶と雪の下の天ぷらです。新茶の天ぷらとは、いかにも静岡らしいですね^^(大井佐久矢) 特選    鯵刺身五島列島育ちかな              原木栖苑    真鯵とか室鯵という魚そのものではなく、調理され食卓に供された「鯵刺身」だから成功した句。まず上五で、皿に盛り付けられた薄い銀色ののこる新鮮な鯵の刺身の映像がうかぶ。次いで、五島列島の島々をとりまく青海原も思い浮かぶ。ところが、座五に逆襲が待っている。「育ちかな」と、まるで海の男、あらあらしい野生児のような言い方で、この刺身のイキのよさを讃えて終わるのである。芭蕉の「行て帰る心の味也」で、初句に帰れば、人間も鯵も生まれて死んでゆく、同じ土俵だよと、作者の腹の据わりぶりがこころ憎い。まさにイキのいい俳句。          (選句・鑑賞 恩田侑布子)

六月のプロムナード

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(画像をクリックすると拡大します)    樸の六月の佳句を鑑賞していきます。梅雨のもとでしっとりとした存在感を増していくものたちを、ご一緒にゆっくり味わいましょう! (大井佐久矢) 鑑賞 恩田侑布子  河明りまだ花合歓の眠らざる              西垣譲  六月下旬、梅雨時の山裾にゆくと、大きな合歓(ねむ)の木が、夢のようにほおっと咲いていることがある。夕闇が迫り、川はしろがねから銀ねず色になるところだ。すべてを見守るように、合歓が樹上たかく、白とピンクの長い睫毛のような花を咲かせている。見る人もない夏の夕べ。山の向こうに日は隠れ、すこし涼しくなってきた。作者は、川ほとりにある菜園から自転車をこいで帰ろうとしているのか。河明りに花合歓明りが重なり、無何有(むかゆう)の郷がひととき姿を現したかのよう。 蛍飛ぶあの日あのこと追ふ如し            秋山久美江  とぶ蛍になり切り、感情がそのまま調べになった句。作者は螢をみながら、次第に過去の時間にタイムスリップしていったのだろう。ぼんやりと過去をなつかしむのではなく、「あの日あのこと」と畳み掛け、しかも「追う如し」と言いきって、切れを響かせた。繚乱と舞うほたるの光の条(すじ)と、追いかけてゆく自分との境は、もはや見定めがたく、今の時間と過去の時間も入り乱れて分かちがたい。こころの叫びが一句になった。 黒南風や港に海月置き去りて             杉山雅子  黒南風(くろはえ)は梅雨初めのみなみかぜ。海月はくらげと読む。「浜」ではなく「港」で、にわかに詩になった。埠頭のコンクリートの上に、置き去られ、乾いてゆく海月の姿が見えてくる。海月は本来、海中では幻想的で美しい生きもの。その生きていた時間の妖しさと神秘の尾をひきながら、無残にも黒南風のうっとうしい曇天の下に死骸をさらすことになった海月。岸壁の灰色と海月の白濁するクリーム色が、黒っぽい海風に溶け込んで、いのちの果てる陰惨さをにじませる。その一方で、どこか凄愴な美しさもある。感覚のいい句である。

恩田侑布子詞花集 五月(二)

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五月第二回目の詞花集では、ふじの句をとりあげます。 「ふじ」は、藤、不二、不時、富士など、おおくの連想を生じさせてくれます。 作品をつうじて、おひとりおひとりにとってのふじなるものに思いを馳せていただけましたら幸いです。         五月の詞花集    きりぎしまでゆけば来てくれますか 藤               恩田侑布子        きりぎしまでゆけば来てくれますか 藤              恩田侑布子  きりぎしはきりたった崖のことで、はっきりとした境界を感じさせる。この世とあの世の境目かもしれないし、正気と狂気のあわいかもしれない。  だから、来てくれますかと問われた人は、ふつうに会える相手でないのだろう。自分とは別の次元にいるか、非日常の機会にしか逢えないひと。すでにこの世のものではないひとだろうか。それとも叶わぬ恋の相手だろうか。 「きりぎしへ」ではなく「きりぎしまで」とした字余りが、会いたい願いの強さを物語っているようだ。張り裂けそうな気持ちが極まって行けるところまで行ってしまえば、あるいはきりぎしを踏み越えるような身を滅ぼすほどの覚悟をみせれば、あなたは来てくれるのですかと、狂おしくかなしく訴えている。  藤の色調は、花房のなかにこまかい光を集めた独特のかがやきとグラデーションとに特徴づけられる。境界の混じりあうような、あわいの美しさである。下垂して咲く姿からは、花房の重量感とともに、不安定さや繊細さも感じられる。毅然としつつも頼りない、心騒がされる魅力をまとう花なのだ。  視覚的にも、「きりぎしまでゆけば来てくれますか」の部分は、一線にしだれる藤の長房だ。藤棚のひとふさのこの世ならぬ妖艶さ。しかし一方で、恩田の作品としては非常にめずらしいひとます空けの技法によって、絶壁の深淵に向かってかかる、寄る辺なく弧絶した山藤の姿もみえてくる。  房のむこうにみえてくるのは、死別の悲しみに打ちひしがれて、あるいは恋の切ない喜びに輝きながら、白靴のハイヒールでゆらゆらと絶壁にすすむあやうい女の姿である。いっそ思いの絶頂でこと切れてしまいたい、という情念すら感じられてくる。藤はまた、呼びかける相手の象徴でもあるだろう。決して手の届かない愛おしいひと。ひょっとすると、かのひとの名前には藤の字が含まれているのかもしれない。余白によって強調された一句の「切れ」に、言葉にならない思いの丈が凝縮されている。  ふじの音は、不二にも不時にもつうじるようで、いとしい相手にたいして抜き差しならない問いを口にしてしまう制御不能のひとときを、ダブルイメージとして響かせている。一句をつうじて繰り返される鋭いカ行音、とりわけガラスを擦るような「キ」の音は、気がふれんばかりの切実な思いを伝えてくれる。  来てくれますかと願ったことは、おそらく届かず叶わないだろう。だからこそ想いは終わることなく深まってゆく。エネルギーの圧縮装置である十七音に折りたたまれた祈りは、かのひとだけではなく読者をも誘いつづけている(鑑賞 大井佐久矢)。

俳句野あそび(1) 句の主題について

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俳句の良い悪いとはなんでしょう? こんな話をよく句会で議論します。 どんな俳句も読んだ人の好みがあり、一様に「良い・悪い」と言えないものですが、やはり「名句」と思うものは歴然と輝いて見えます。 その違いは何か? 恩田侑布子は、「切れ」にたたみこまれた余白を味わえるのが名句ではないか、とよくいいます。 俳句の「切れ」を読み取ると、正確に主題をつかむことができ、その句の世界が立ち上がります。主題が強靭な句は、ただ単にその世界を眺めて楽しむだけに終わりません。こちらから句の懐に飛び込ませてくれる深さがあり、飛びこんでみると新たな景色を見ることができるのです。そんな句と出会えることが読む楽しさであり、読まれる楽しさだと思います。 が、裏を返せば「主題」が分からなければ何も始まらないのです。〈作者だけに分かる、私だけの主題〉では出来損ないの暗号文になってしまうし、〈誰にでもわかる、ありきたりな主題〉では面白くありません…。つい出来損ないの暗号文を作ってしまいがちな私は、毎回その舵取りに悩みます。 分かってはいるはずなのに、いざ作ると自分の想いとは別のところを「主題」と読まれてしまったり、そもそも「主題」が行方不明になっていたり…。 そんなことを考えていたら、とあるレストランでこんなメニューを見つけました。 『イチゴ揚げアイスパンケーキ』 揚げられているのは〈イチゴ〉か〈アイス〉か…。 それとも〈揚げ豆腐〉が入っている新感覚スイーツか? 一体この食べ物の「主題」はどこに?! ここまで客の気持ちを惹きつけるとは、商品名として大成功! お店の人も困惑するお客さんを見てニンマリしていることでしょう。 でもこれが俳句だったらどうでしょう? 読んだ人が困惑する姿をニンマリ見ることは俳句の楽しみ方ではありません。 商品であれば実際に出てくるもので勝負できますが、俳句はその文字が全てなのです。 それがどういう形態で、どんな温度で、どんな味で、どんな感想を抱かせるのか、十七文字で表現しきらなくてはならないのです。 謎のスイーツを通して、自分の句を改めて観察することになろうとは思いもよりませんでしたが、課題がより明確になったのはよい収穫でした。〈誰にでもひらかれた、私だけの主題〉を詠み込めるよう、決意を新たに精進したいと思います。(山田とも恵)

5月20日 句会報告と特選句

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5月2回目の句会が行われました。 兼題は「夏に入る」と「春季の花(春の季語の花ならなんでもOK)」でした。 春を迎えた頃の句会でも思いましたが、季節の変わり目の句は特に感性から滴るような句が多いように感じ、披講(作品を読み上げること)を聞くのがいつも以上にワクワクします。 以下は、今回の高得点句と、話題作の二句についてのレポートです。 バゲットのやうな二の腕夏来たる             山本正幸 この「バゲットのような二の腕」については、子育て真っ最中の立派な二の腕を持ったお母さんという人物像をイメージする人もいれば、「バゲット=茶色くて硬そう」というイメージから筋肉質な男性をイメージした方もいて、比喩の難しさと面白さを感じました。 恩田侑布子は「バゲットのやうな」を「バゲットのごとき」とし、 バゲットのごとき二の腕夏来たる とした方がより、フランスパンのようなこんがりした健康さが出るのでは、と添削していました。 女学生の制服が夏服に衣替えし、ほっそりとした二の腕を目撃しても、やはり夏の到来を感じそうなものですが、あえて「バゲットのような二の腕」から夏を感じ取った視点がユーモラスだと思いました。     つめくさやみどり児のほゝ匂ひさせ            藤田まゆみ 話題になった句です。二人の方が特選で取られました。お二人とも子育て経験のある女性。お一人は「こんな風に素敵な子育てできなかったなぁ」と自戒を込めて取られたそうです。きれいごとだけではない、子育ての厳しさを感じるお言葉でした。 恩田先生からは「つめくさ」は白詰め草の別名として辞典には載っていても、歳時記にはなく、季語にならない。普通に「しろつめ草」として、 しろつめ草みどりごのほほ匂はせて とされれば、素直にやさしい情景がうかぶのではないか、と添削していただきました。 このイメージは子を育てる経験があってもなくても、本能的に憧れてしまう光景ですね。赤ちゃんを抱きながらシロツメクサの咲く原っぱを歩いているような、やさしく幸せそうな実景が香りとともに立ち上がってくるように思いました。男性陣からは点が入らなかったのが、とても興味深かったです。 次回の句会は6月3日(金)。 兼題は「短夜(みじかよ)」と「‟田‟の字を一つ入れて」です。 皆さんが、夏至に向かう時候と、この季節の田んぼをどう俳句にするのか、今からとても楽しみです。(山田とも恵)     特選    君を立て周りを立てて霞草             久保田利昭     ある意味人を食った句である。「君を立て」と唐突に言われると、まず読者はドキッとする。最後まで読んで、ははーん、霞草のことだったのと肩透かしを食らう。霞草は花束の中で、引き立て役によく使われる。自己主張をしないので何の花にも合う。薔薇が「君」なら、スイートピーは「周り」の花だろうか。一義はブーケの霞草だが、ダブルイメージとして、花束を渡される主人公や主賓を気遣う控えめな人物が浮かび上がる。「周りを立てて」とまでいわれると、霞草にあわれをもよおす。主役になりきれない人生への共感に満ちて、じつは温かい句なのだ。         藤波やかなたの人の声をきく               原木裕子     見事な長藤がたなびいている。藤は春の湊のよう。すぐそこまで夏は来ているが、まだ春らんまんの駘蕩としたゆたかさのなかにくつろいでいる。風になびく光景は、桜にもおさおさおとらぬ美しさ。作者は藤波のもつ悠遠さをよくみつめている。樸の原初同人、戸田聰子さんを追慕されているのかもしれない。藤波さながら終焉まで優美で高貴であった人を。戸田邸の藤棚に、皆で招かれた春昼があった。庭先の格子戸の桟までかぐわしい匂いがこぼれていた。「かなた」と「きく」のひらがなが、内容のやさしさにマッチしている。いつまでもいつまでも、その人の声がきこえる深い春の青空である。        (選句 ・鑑賞  恩田侑布子)

5月6日句会 選句と鑑賞

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5月の第一回目の句会は、「蝌蚪(かと)」と「柳」を兼題にしておこなわれました!^^ 蝌蚪とは、おたまじゃくしのことです。参加者のなかでも、蝌蚪という言葉をはじめて聞いたという方がいました(私もそうでした)。 初めて目にしたときは音読することさえ難しいような季語ですが、俳句をつうじてあたらしい言葉を知っていくのはとても楽しいです。 なお、兼題とは、句会に先立って知らされているテーマのことです。季語が選ばれることが多いですが、その他にも何らかの漢字一字や、ほかの言葉が指定されることもあります。 同じテーマに即して、参加者たちが作品を持ち寄るわけですね!  なお、季語には「傍題」もあります。たとえば、「柳」という季語の傍題には、「青柳」「糸柳」「柳影」「柳の雨」「雨柳」などなど、柳にかんするたくさんの言葉が含まれています。「柳」が兼題であるといっても、句会の参加者はこれら多くの傍題を作句に使えます。 さらにあらき俳句会では、兼題として出された季語や言葉を使っていない作品を提出することももちろん可能です。兼題は、あくまで参加者が作品をつくりやすくなる一つのきっかけとして出されるにすぎません。今回の句会でも、「ライラック」「アマリリス」「花時雨」「清明」などの季語による作品がありました。そして、無季の句や破調の句、そして季重なり(二つ以上の季語を含む作品)も、あらき俳句会で分かち合うことが可能です。 今回特選にえらばれたのも、兼題以外の季語「蝮草(まむしぐさ)」を用いた作品でした。あらき俳句会における作品評価には、特選、入選、原石賞、などがあり、特選が最高の評価です。 それでは、今週の特選句と恩田代表による鑑賞を、ぜひお楽しみください! (大井佐久矢)   特選   土中にはあんぢゆうありや蝮草                山田とも恵   蝮草は晩春の季語。山裾の土のなかから這い出し、鎌首をもたげる蝮を思わせる異形の草、蝮蛇草に問いかける。死後土に帰ったとして、土の中には安住があるのですか? この世のどこにも安住はないのではないか。異形のものに問いかけずにはいられない。「あんぢゆう」というひらがな表記によって、土の湿っぽくなまあたたかい不気味さが感じられる。また「土の中」ではなく、ドチュウと音読みしたことで、感傷に沈まず、抒情が強靭になった。行く春の物狂おしさ、生きることの得体の知れなさを独自の文体で描いた作者は、二九歳。将来が楽しみな大型新人の登場である。       (選句 ・鑑賞  恩田侑布子)

五月のプロムナード

五月のプロムナード用写真

(画像をクリックすると拡大します)                                                         樸の五月の佳句を、季節のうつろいにあわせた並び順で鑑賞していきます。薫る風を胸いっぱい呼吸しながら散歩するように、楽しんでいただけましたら幸いです。  なお樸では、仮名遣いの新旧をめぐる作者の選択を尊重しております。仮名遣いや音の印象をふくめて、作品を絵画としても音楽としてもどうぞ自由におうけとりくださいませ(大井佐久矢)。 鑑賞 恩田侑布子  みかん咲く富士も港も香の中に             原木栖苑  静岡は香りの国。五月は新茶の芽吹とともに、蜜柑の花の香に里山が満たされる。ことに山窪は甘い清純な香りの坩堝と化し、壺中の天地のよう。作者ははじけるような白い花かげから富士を仰ぎ、清水港を見下ろす。そのとき、まるで円光に抱き取られているかのように、富士も港も、シトラスの芳香のなかにあることを確信した。柑橘のケラチン質の葉の緑。富士の頂と山腹の白と青。港の彼方にひろがる駿河湾のきらめき。地貌俳句にして、北斎の富嶽三六景さながらの大柄俳句といえよう。蜜柑の清楚な花が、極大の海山を包み込んでしまうところに一句のダイナミズムがある。さりながら、読み心地は蜜柑の花のように、あくまで可憐。 薔薇という字の貌をしたバラのあり            久保田利昭  飄逸。笑える。名は体を表すどころか、字は体を表すという。ドライな見方はあんがい薔薇の美を言い当てている。薔薇をバラとカタカナ表記し、顔を貌としたことで、気品ある薔薇のかなたに、気位の高い絢爛たる女性の姿が揺曳する。A音七音と口語調が明るい開放的な夏の陽光を感じさせ、内容の現代性にマッチしている。大胆な機知が光るこんな句を読むと、俳句文芸には、理系文系の垣根がないことがわかる。湿度がないのがいい。 塔高く薔薇の花束抱く子かな             佐藤宣雄  文句なく美しい句。フランスやイタリアの田舎にある教会で行われる結婚式の光景だろうか。塔の下に、天使のように盛装した子どもが赤や白の薔薇の花束を抱いて、新婦が来るのを待っている。結婚式と限らなくても、何かお祝いの式が始まるのだろう。その予兆のように、句の調べにも胸の高鳴りがある。塔の上からカリヨンが聞こえてきそう。 若葉雨大関負けてひとり酒             松井誠司  「若葉雨」と「大関負けて」の措辞が音楽性ゆたかに響きあう。横綱ではこうはいかない。判官贔屓の人の胸の内にはいつも清らかな流れがある。若葉雨もきっとそこに流れ入るのだろう。若葉色の雨しづくが、やわらかでなつかしく、ひとり酒のしめやかさに明るさがある。作者はまだ日のあるうちからきこしめしている。高級酒ではなさそうなところもいい。 パラソルを廻しつゝ約束の時            樋口千鶴子  日傘を肩にくるくる回しながら好きなひとを待つ。可憐で初々しいしぐさにドラマが仕込まれている。句跨りのリズムの屈折が絶妙なのである。そこから胸のときめきと、かすかな不安が同時に伝わり、こちらまでドキドキさせられる。これからどうなるのだろう。二人は、わたしたちは。ここにあるのは有無をいわせぬ若さである。二度と帰らない若き日のはじけるような日差しの純白。 漕ぎ出す大漁旗や夏の蝶              西垣譲  小さな漁港から色鮮やかな大漁旗を掲げて出港する漁船。可憐な春の蝶とはちがって力強い生命力に溢れた夏蝶が、船に競うように海上をついてくる。波の青々したうねりまでみえるようだ。緑の山が漁村の低い甍に迫る日本の津々浦々の風景が浮かぶ。掲句は、西伊豆海岸にある漁港の祭り風景かもしれない。「出す」がいい。「出づる」ではよそ事になり、「出しし」では、たんなる風景になる。「いだす」で勢いがつき、海の男たちと夏蝶の双方に、いのちの体重がかかった。