『角川俳句』 恩田侑布子「偏愛俳人館」をすすめる。

20200927 佐々木敏光 偏愛俳人館2

photo by 侑布子

 

『角川俳句』 恩田侑布子「偏愛俳人館」をすすめる。

                        佐々木敏光 

二月号『角川俳句』の新連載、恩田侑布子「偏愛俳人館」は、個性的な俳人による「偏愛」の俳人コレクションということで、興味をもってのぞんだ。はたして二月号は飯田蛇笏で、ぼくにとっても五指に入る、特別の思いがある俳人であり、第一回目にしてなるほどと思わされた。
タイトルというか、副題というか「エロスとタナトスの魔境」には堂々と論を張る著者の立ち姿がみてとれた。それから、竹久夢二、阿波野青畝、久保田万太郎、林田紀音夫、芝不器男と堂々たる論の連続である。(ちなみに、竹久夢二、林田紀音夫は今まであまりなじみがなかったと正直にのべておこう)
特に九月号は橋閒石で、この七,八年特に気になっている俳人で、老年にいたっての作品の質の急上昇の秘密を知りたく思っていたこともあって、(ぼくはぼくなりにある種の断念(思いっきりよさ)が閒石をして、老齢の自由闊達な境地を開いたと思ってはいたが、文学部に入ってそうそうに荘子の毒気をあびたが、その後齢経ての老子再発見と、四十代後半までの小説や詩、日本文学、西洋文学、フランス文学は専攻までし、中世フランス語まで読んだりしたなど呑気な格闘をへてのやがて長いものへの断念から、俳句への傾斜となった)深い興味を持って読んだ。重要な点をおさえた予想を裏切らない立派な論であった。
細かいことは書かないが、『和栲 』は、やわらかな見事な句集であった。これが蛇笏賞をもらう前段階で、閒石は飯田龍太などの間では、それまでは名も知らなかったが、実に興味深い俳人であるとのうわさがたったようだ。ぼくもその後、沖積社『橋閒石俳句選集』を入手したが、読んでいて平凡な句の羅列にうんざりした。『荒栲』『卯』からおやおやと思った。
『和栲 』にいたってあらためてその独自な世界を納得した。その後、沖積社『橋閒石全句集』を手にいれた。『荒栲』以前の句は読む気力を失せるものであった。
ただ、ぼくのホームページの「現代俳句抄」には、それなりに努力して『荒栲』以前も若干掲載した。
いわく、
 秋の湖真白き壺を沈めけり    (『雪』)
 雪降れり沼底よりも雪降れり
 柩出るとき風景に橋かかる    (『風景』)
 七十の恋の扇面雪降れり     (『荒栲』)
 渡り鳥なりしと思う水枕
である。なんとなく与太ごとをかきかねないので、これ以上はかかない。
ただ、恩田さんの論での橋の引用文、芭蕉の根本精神は「中世芸道をつらぬく、『余情』『幽玄』の哲理」とともに、「具象が象徴の力を帯びて幻影となるまでに単純清澄となる」は適切で、論を引き締めている。
さて、われらは齢をとってまで、誰かのエピゴーネンになることもないであろう。閒石の句 閒石ひとりであっていい。それはそれでそれなりに狭い世界でもある。壺中之天かもしれない。
われらはわれらの老年をいきるほかない。

2020.9.1. 

恩田侑布子が角川『俳句』に連載中の「偏愛俳人館」を佐々木敏光様(富士宮市在住)がHPに取り上げてくださり、転載をご快諾いただきました。
ここに厚くお礼申し上げます。
 

佐々木様のホームページはこちらです

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