注目の一冊・小田島渚『羽化の街』

 小田島渚さんは2022年に第39回兜太現代俳句新人賞を受賞され、第一句集『羽化の街』を出版されました。恩田侑布子による『羽化の街』句集評を『小熊座』2023年7月号より転載いたします。

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photo by 侑布子

 

小田島渚句集『羽化の街』(現代俳句協会2022年10月刊)

  再生の森

恩田 侑布子

(「樸」あらき代表)

視点の意外性

 ユニークな大型新人の登場である。小田島渚の処女句集『羽化の街』は未知の白南風を孕んでいる。
 何といっても切り口の意外性が出色。
  芋虫に咆哮といふ姿あり
 毛も棘もない青虫は、いたっておとなしい生き物だ。その地味ないのちが「咆哮」とは。しかし、これは虚仮おどしではない。葉の上や、転がり落ちた土の上を進む姿をよくみてみよう。尺取虫のように体を縮めてオメガの記号さながら背中を精一杯高めたかと思うや、今度は、前途に向かって筒状の胴を思い切り伸ばす。その瞬間、頭の先が空を向く。泳ぐのである。作者は刹那、無音の「咆哮」を聞いた。オメガはギリシャ語アルファベットの最後の文字だ。最終にして究極の存在から、たったいま咆哮が放たれたのである。
  潰されし卵はあまた雲の峰
 「雲の峰」と潰された多くの「卵」との取り合わせは、ありそうで無かった。荷台から大箱ごと滑り落として道にぐちゃぐちゃになった黄と白の氾濫を実際にわたしは見たことがある。なまなましさは禍々しさだった。ダブルイメージとして、裏に静かな日常がほの暗く張りつく。毎朝、殻を割って溶き潰す卵焼きの甘さはたまらない。日常の幸せは日の目も見ず蹂躙される無数のいのちによって成り立つ。地平線には琺瑯質の峯雲がかがやきわたって。
  震へたる署名の文字や葡萄枯る
 渚は憧れの作家のサイン会につながった。自分の番が来た。栄光の名前がいま、わがものとなった本の扉に書かれる…はずが、震顫する手、よろめく字。黒々とたわわな房をつけていた葡萄の木には、もはや水気がない。権威となった人の無残な芸術の死。辛辣な批評精神が異彩を放つ。

感受のダイナミズム

 こうした斬新な視点はすぐれた感性からもたらされる。感覚のよろしさは次の句群からも明らかである。
  紫陽花の冷たさに触れ巡り逢ふ
 萼片の密集する紫陽花の団々とした姿に「冷たさ」を感受する意外性。ちりばめられたアイウエオ五母音の配置が七変化さながらに美しい。「逢ふ」人と、梅雨冷えのある日、別れるであろう余韻が水脈のように尾を引く。
  緑蔭やどの唇も開かれず
 〈緑陰に三人の老婆わらへりき〉を思う。しかし、三鬼ほど悪魔的ではない。共通するのは「緑蔭」特有の明暗の夢魔感である。わらう老婆の皺に対して、こちらは「どの唇」もぽってりと肉感的だ。口から始まる深い管は一本ずつ内側へ閉じている。唇と管は樹幹の相似形となって静まり返る。虚と実の混淆が若々しい。
  白南風や軋む音して羽化の街
 白南風が吹いて街が羽化するだけならイメージで終わった。「軋む音して」がリアル。三・一一から復興し、変貌する未来都市は、そこで暮らした人々の思いを過去へ置き去る。言葉を奪われたものたちの哀しみに街は「軋む」。
 こうした水準の俳句が全編に揃えば間違いなく圧巻の句集であった。が、まだ「俳句を独学ではじめた二〇〇九年」からわずか十三年である。溢れる才能が暴走した〈鵙の贄増え夕空の渦巻きぬ〉、幻視に至らず自壊した〈白鳥は悲恋を咽に詰まらせて〉、散文叙述体の〈蜂蜜に溺るる心地春の夢〉など未消化な句もある。小田島渚には胆力という美質がある。悠々と課題を乗り越え、大成してほしい。

大柄な句群

 俳人の力量はきずのない句を揃えることではない。人を感動させる大柄な俳句をつくれるかどうかだ。最終章「流星のたてがみ」は、小田島渚の作家魂が最も躍動している。
  泥沸騰冬満月をあまた産む
 異界の光景といえよう。ひとけのない沼沢地の泥が沸騰し、「冬満月をあまた産」んでいる。中国の古代神話に十の太陽がある。一本の木のてっぺんと脇に黄金の日が実る彫刻を見たことがある。が、月は知らない。三橋鷹女の遺作〈寒満月こぶしをひらく赤ん坊〉は浄らかなみどりごの掌から寒月が一つ生まれる。小田島渚の煮え激つ泥沼からはあまたの冬の月が出現する。先の〈震へたる署名の文字や葡萄枯る〉の玉座に座る老大家への幻滅は、ここに来て、沸騰してやまない作者自身の創作意欲に、しかと着地してみせるのである。
  喪ひし舌を探しに寒林へ
 寒々しい裸木の森へ、作者は何を探しに行くというのか。「喪ひし舌」だという。今朝もいつも通り、遺伝子組換の輸入納豆を食べた。化学調味料のタレに不満はなく、AIの管理下で悪無限のように産まれる卵はキレイだ。空気を読んで大人になり、フェイクニュースと「いいね」に、ペラペラに痩せこけた舌よ。二枚舌よ。そのむかし、ふっくらと大地から生えていた厚い一枚の舌は、何処いずこ
 寒林の奥に遠近法の消失点はない。ピカソのキュビスムの絵のように、この寒林は崩壊と組成が同時進行の迷宮をなす。渚は真実のぶ厚い舌を求め、寒木の影の網目をさまよう。江戸中期のロマネスクの詩人蕪村は〈桃源の路地の細さよ冬ごもり〉と詠った。現代人の原郷はもはや桃の花咲く洞窟の奥には無い。作者の回帰願望もデラシネの追懐ではない。寒林への遡行は切実な再生への祈りである。
  鷹に掴まれ淵源の森見たり
 「鷹に掴まれ」て小人になったかと思いきや、赤子に、いや胎児に、いや未生以前のいのちになって、渚は遡源する。その森のなんというゆたかさ。眼力の勁さ。

エピローグ

  背中にも目のある巨人青嵐
 後頭部でもお尻でもなく、背中に「目のある」巨人とは誰か。彼は全てを背負ってきたのに、いまはもうデイパックすら背負わない。無防備な背中が剥き出しである。後ろの生き物へやさしい眼差しをそそぐ巨人は、童話と哲学の結婚から生まれた。〈青空の一閃となり飛び込みぬ〉。そう。青空の瞳をもつ天の渚は、蒼穹に飛び込み、さらなる佳什を現代俳句にもち来たることであろう。

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photo by 侑布子

 

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