自由に羽ばたく心 ー『星を見る人』を読んで ー

家族_上_熟睡子の声たて笑ふ銀河の尾
郷土の宝、一葵君、大きくなれ!

熟睡子(うまいご)の声たて笑ふ銀河の尾 恩田侑布子(写俳)

  

 
自由に羽ばたく心

小松 浩

  
 読み終えた誰もが、きっとこう思うだろう。書題となった古代トルコの出土品「スターゲイザー」(星を見る人)には、「感情の大地」「感情の大陸」に足を踏みしめて立つ著者・恩田侑布子が投影されている、と。そして、その人は常に「自分より相手の立場に立って考える人」「あらゆる既成の権威から自由な人」である、と。
 冒頭は、石牟礼道子の句集鑑賞である。石牟礼は言うまでもなく、他者である水俣病患者の痛みをそっくり我が痛みとし、戦後日本の高度成長社会の拝金思想と体ごと闘ってきた人だ。近代日本を「踏み抜いて」いった石牟礼の句からこの本が始まるのは、おそらく偶然ではない。近代化で利得をむさぼる側ではなく、破壊された「土俗的ないのち」に耳を傾けようとする石牟礼の側に、恩田もいるという宣言なのだ。
 
 そして、井筒俊彦。俳人でもなく、詩人でも芸術家でもない人物に一章が割かれているのは、井筒だけである。井筒の主著『意識と本質』を芭蕉に絡めて読み解くのは、正直言って難解だ。とはいえ、なぜ井筒かはわかるような気がする。島国日本のイスラム社会への無知・無関心、偏見を、井筒は長い間、ほぼ一人で粘り強く解きほぐそうとしてきた。そして、多層多元なイスラム文化を理解することなしに、日本人が複数座標的な世界意識を持つことはできないと訴え続けた。自己主張ではなく、他者の息遣いをどこまでも聞こうとする姿勢は、石牟礼に井筒に、そして恩田にも共通している。 
 
 理不尽な扱いを受けている人やモノの側に立つ、ということは、当然だが、権力や権威から自由になる、ということである。前著『渾沌の恋人』で、丸山眞男や金子兜太といった論壇や俳壇の大御所にも率直な疑問を投げかけていた恩田の筆致は、『星を見る人』でもいささかも変わらない。定家の歌に対する芭蕉や小林秀雄の鑑賞の浅さが批判の俎上にのぼるかと思えば、高校生の夏、釘付けになったという中村草田男の句から始まる草田男論では、愛情あふれる評価の一方で、晩年の衰えに対する失望を隠さない。既成の権威がたとえ敬愛する人物であったとしても、盲従はしないのだ。
 それは、恩田が己れの奉仕する文学や美の価値というものを、いつもものごとの判断基準に置いていて、右顧左眄しないことからくるのだろう。「俳諧自由」という言葉をよく耳にするが、俳句の題材や表現をめぐる自由を説く前に、まずはあらゆる出来合いの権威から自由になることこそ、本当の「俳諧自由」ではないか。
 
 「自分より相手の立場に立って考える」ことや「あらゆる既成の権威から自由」であることを、日本の国家や社会は、昔からずっと苦手としてきた。
 昭和17年から20年まで書き継がれた自由主義者・清沢洌の『暗黒日記』には、「日本で最大の不自由は、国際問題において、対手の立場を説明することができない一事だ。日本には日本の立場しかない」という箇所がある。国際情勢における視野の狭さと夜郎自大の精神論が、あの惨憺たる犠牲と破滅とを生んだ。そして現代のネット社会は、同じ考えの人間が互いに閉じこもり、汚い紙つぶてを投げあっている。罵倒と論破の言葉ではなく、共感と相互理解の言葉を。『星を見る人』はそう呼びかける。
 上への屈従、長いものに巻かれろという世論、事なかれ主義もまた、悲惨な戦争を招いた原因だった。それは、今日まで続く忖度政治、忖度社会に深く根を下ろしている。権威の囚われになっている限り、心は自由に羽ばたいていけない。

 『渾沌の恋人』、『星を見る人』と続けて読むことで、人は恩田侑布子という文学者の全体像を知る手がかりを得るだろう。恩田が書いてきたことの背景には一貫して、明治以降の大国ナショナリズム、経済成長至上主義への異論と、地球規模で進む温暖化や核軍拡への抵抗がある。俳句の世界には花鳥風月とか人間探究とか社会派俳句とか、さまざまな分類があるが、恩田は内面から湧き上がる「感情、認識」を「気息、風土」とともに17音にし、そこに「余白」を息づかせることで、細かなレッテル貼りの議論を軽く飛び越えているように見える。社会や人生にどう向き合うか、という世界観、座標軸。己れの美意識と呼んでもいいが、詠み手の内側にそういう確固とした芯がない限り、俳句はいつまでたっても文学に昇華しない、と恩田は言いたいのかもしれない。
 
 余談になるが、似ている。詩人の金子光晴と。荘子の思想への傾倒、徹底した反戦主義、近代機械文明への懐疑、自然への愛情、唯美的でロマン主義的な作品。文学を「僕にのこされたたった一つの武器なのだ」と言った漂白の詩人は、自身の生涯に何が残るのかと自問し、「それは、僕が、僕のやりかたで、僕の人生を愛したということだけではないか」と自伝に書き残した。日本の近代化への強烈な違和感と、自分がつくりたかった美の殿堂を、金子は詩に、恩田は俳句に託し、表現してきたのだろう。

 樸俳句会に初めて参加した日、恩田から「自分が不在の句はだめです」と言われたことを覚えている。その意味が、だんだんわかってきたように思う。

  

家族_下_千年や桃の産毛を形見とし

千年や桃の産毛を形見とし 恩田侑布子(写俳)

「自由に羽ばたく心 ー『星を見る人』を読んで ー」への2件のフィードバック

  1. 恩田先生の句を、僕はいつも難解だと感じてきた。だが、この欄の写真に添えられた次の句は、素直にすっと入った。

    熟睡子(うまいご)の声たて笑ふ銀河の尾

    ぐっすり寝入った赤ちゃんが、声を出して笑うことがある。あやしながら夜空を仰ぐと、銀河が一面に広がっている。大銀河の端くれに誕生したばかりの小さな小さな命が、呼応するかのように笑みを夜空に向かって投げかけている。
    なんと雄大で、かつ人間の尊厳を高らかに歌い上げた詩だろうか。
    僕も辛抱強く投句・選句を続けていけば、俳句の醍醐味をあじわうことができるようになるかもしれない。

  2. 好きな本を身近な人と共有出来ることは喜びである。それ以上に、その本についてこのようなネットの場であれ語り合えることは更なる喜びだ。
    小松さんが書かれていることには全く同感です。

     紀元前4500年前らしきアナトリアの出土品のことは今まで全く知らなかった。「星を見る人」という出土品の写真を検索してみて、この本はこの題名以外ありえないなと思った。
     「意味以前の共通の地下水脈で万人につながろうとする。」
    (40ページ)。
    この「星を見る人」の塑像がまさに、攝津幸彦さんの俳句に感じるものと同じ波紋を意識の中へと落とし深層意識を揺り動かす。「星を見る人」の出土品。ああ、そうか。夢の中で空を飛行している時の形だ。夢の中での飛行は、西洋の大天使のような翼が背中にあるわけではない。腕を45度下に向けて物凄い高速で飛翔する。腕と体の間に透明の厚い膜があって、ヨットが帆の左右の風の速度の違いを推進力に変えているのと同じ原理で飛翔する。だから顔が上を見ているのではなく前を見ているのだ。塑像を立たせているから星をみているように見えるが。

     でもそんなことはどうでもよい。大事なのは、「地下水脈で万人につながろうとする。」ものが、意味を消してたち現れる
    ように造形してあることだ。
     そして、攝津幸彦さんの俳句は、音によって、潜在意識に波紋を投げかけ、何かを呼び起こす力がある。
     人類が楽園を追放される前、恐らく、単純な母音と、自然界の音、雷の音。波の音。木々のざわめき。動物の鳴き声。鳥の鳴き声。それらを真似して、あーとか、うーとか、何か声を発して、喜びや悲しみなどを表現していただろう。
     その母音の音の配列の組み合わせによる原始の記憶が、俳句の中で意味は解らないのに、どうしようもなく心を揺り動かす。それは攝津さんの俳句だけに感じることではあるが。
     そういう意味で、攝津幸彦さんの俳句と、「星を見る人」の塑像は、同じ力を持っているのだと思う。
     この本の40ページの部分は、もはや暗記してしまった。

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