9月1回目の句会が行われました。今回の兼題は「涼し・残暑」でした。 季語の“涼し”は「秋が近づいてきたなぁ~」という頃(晩夏)に使うのではなく、初夏~晩夏まで使える季語だと知りました。恩田侑布子からは、「『涼し』は微妙な季語であり、悟り、達観を込めている。体感や皮膚感覚を超えた文学的、伝統的な言葉である。嫌味になることがあり、“ナマ悟り”に転びかねない。」との解説がありました。 さて、まずは今回の高得点句から。 ビルの窓ビルを映して秋暑し 伊藤重之 「都会の風景。今のビルは窓を開けないから、ほかのビルがよく映るのだろう。」 「ビルが二つ出てきて、ビル同士が反射して暑さを増幅している」 「太陽が真夏よりやや傾いていて、より暑い日差し。秋の西日を感じる。」 というような意見が出されました。 恩田侑布子は、 「特選に近い入選句。直すところがないくらい、よく秋の暑さとビル群を描けている。が、鮮度の点で特選に採れなかった。」 という意見でした。 今回の句会では、「季語がつきすぎ」の句が多かったと恩田侑布子より講評がありました。 例)感電す積乱雲ごと窓拭きて 山田とも恵(9月2日句会より) →“積乱雲”という季語と、“感電”が付きすぎている。 (1)季語が付きすぎることで、句のふくらみが無くなってしまい、逆に季語の本意から遠ざかってしまう。 (2)一方季語と離れすぎる言葉を入れてしまうと、自分の世界に入り込みすぎてしまって鑑賞者を置き去りにしてしまう。 とても難しいバランス感覚だが、どちらかというと後者(季語と離れる言葉の取り合わせ)の方が挑戦心を買える。 小さくまとまらず季語に飛び込んでいってほしい。 「句会は挑戦の場なのだ!」ととても心強くなりました。 一句ごとに挑戦心を忘れず、でも一人よがりにならぬよう、作句していきたいと思いました。 次回の兼題は「蟲(むし)・秋の七草」です。(山田とも恵)
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8月19日 句会報告
8月2回目の句会が行われました。今回の兼題は「向日葵」「夏服」でした。 今回は恩田侑布子の特選句が出ませんでしたが、「あと一歩で名句だったのに!」という句が目立ちました。イメージが沸きやすい兼題にも関わらず、個性豊かな世界観が広がっていたような気がします。 さて、まずは今回の高得点句から。 夏服や遠くに海を見るホーム 佐藤宣雄 「すごく単純だけど、心惹かれる青春句に感じた」 「涼やかで悲哀に満ちて落ち着きがある」 「津波で町が流され、遠くにある海まで見渡せてしまう悲哀を感じた」という感想が出ました。 “ホーム”という言葉にそれぞれ違うイメージを持ったようです。 青春句と感じた方は「夏の制服を着た若者が電車のプラットホームから海を眺めている様子」を、 悲哀に満ちた句と感じた方は「老人ホームの窓から海を見ている老人の様子」を、 そして「東日本大震災の被災地をプラットホームから眺め、季節が巡っても光景が変わらない様子」を見たのです。 恩田侑布子はこの読み手のイメージのばらつきは、やはり“ホーム”を曖昧に描写しているところに理由があると感想を述べました。 同じ音でも違う意味を持つ言葉には注意が必要ですね。 さて、続いての句は添削してみるとより面白くなると話題になった句です。 アロハ着て夜の国ゆくピアノ弾き 伊藤重之 恩田侑布子はとても個性的な世界観の句で、ひとところに収まらない、放浪のジャズピアニストをイメージできると鑑賞しました。しかし中七の「夜の国ゆく」というところがメルヘンチックになってしまい、損をしているように感じたようです。そこで、このような添削例を出しました。 (添削例) アロハ着て千夜をゆけりピアノ弾き アロハ着て千夜をゆくとピアノ弾き 「千夜一夜」という言葉の持つ妖艶さが、夜から夜に渡り歩くピアニストの放浪の旅と結びつき、句の世界観をより一層高めるのではないか、というアドバイスでした。 作者は「千夜をゆけり」が気に入ったようです。 次回の兼題は「秋の日」「きのこ」です。 すっかり秋の季語です!!この兼題では「秋日」「秋日和」「しいたけ」「タケノコ」などの食べ物としてのきのこでも、「キノコ狩り」のような使い方でもOKと、幅広く季語を探していいとのことですが…逆にとても頭を抱える二週間となりそうです。(山田とも恵)
八月のプロムナード
樸の八月の佳句を恩田侑布子が鑑賞していきます。 夏から秋にかけての刹那的な熱がほとばしる季節をお楽しみください。(山田とも恵) ≪選句・鑑賞 恩田侑布子≫ 胡瓜もみ昨日も今日も明日もかな 樋口千鶴子 子どものころ「今日もコロッケ、明日もコロッケ」という歌がよく流れていた。コロッケは冬季の季語にふさわしいが、こちらは火を使わない夏の定番料理、胡瓜もみ。ひらがなのなかに「胡瓜」、「昨日」、「今日」、「明日」と漢字がとびとびに埋まっていて、あたかも日めくりの暦をめくるよう。めくってもめくってもそこに現れるのは胡瓜の塩もみ。透明な翡翠色の食卓が永遠につづくような気がする。素手素足で生きる涼しさ。こんな滑稽はわるくない。 原爆忌父の命日でもありき 佐藤宣雄 父は長い戦後を生き抜いてぼくらを育ててくれた。その命日が八月六日。まさに原爆忌であった。一個のいのちを喪った悲しみすら言い尽くせないのに、原爆の死者を一口に14万とも35万人ともいう。だが、アメリカ人の多くは「原爆は戦争終結に役立った」と今も考える。そこに日本が加害者として戦争を始めた根深さがある。「戦争を日本人自身の手で終わらせることができなかったことの意味は今後もこの国に長く尾を引くでしょう」と鶴見俊輔は問いかけた。掲句も座五の「でもありき」が不断に問いかけて来る。社会や歴史に、わたしたちはかけがえのない個として切実に向き合ってゆくしかない。父の無言の遺言が聴こえる。 揚花火老い知らぬまま華のまま 海野二美 夏の夜空を焦がす大輪の花火。その炸裂音。花火は老いを知らない。衰える前に消える。この句は、華のまま美しく別れましょうというせつない恋の句であろうか。生涯をかたむける一夜限りの逢瀬は、時を闇に発光させる花火さながら。しかし、声に出して口遊んでみると意外にもふっくらとやわらかなリズムに包まれる。次々に揚がる花火のように、うつくしく華やかに生きたいわという夢みる女ごころかもしれない。
8月5日 句会報告と特選句
8月1回目の句会が行われました。今回の兼題は「風鈴」「夜店」でした。 「風鈴」は住宅環境の変化によって最近は姿を消しつつありますが、あの音色は日本人のDNAに刻まれているのか、自然と涼しい風を感じることができる気がします。 さて、まずは今回の高得点句から。 風鈴に音みな吸い取られし午後 佐藤宣雄 「夏の午後の倦怠感がある」 「音を“吸い取られる”という表現がとても勉強になった」 「風鈴の音が聞こえるからこそ、より周りの音が静かに聞こえるという感覚が共感できる」 というような意見が出ました。 恩田侑布子からは、 「発想は面白いがリズムが良くないと思う。静謐な風鈴の音を感じる上五と中七があるのに、最後の「午後」という音が雑音になってしまっていてもったいない。」という意見が出ました。 作者は情景を明瞭にしたいと思い、あえて「午後」を入れたとのことでした。 全体のリズム感を保ちつつ、自分の描きたい情景を浮き上がらせる…難しい! さて、続いての句です。 ちちははとあにあねと行く夜店かな 藤田まゆみ 「幼いころを思い出している光景かなぁ」 「夜店の出ている場所へと向かう、幼い日のあたたかい雰囲気が懐かしくなる」 「できたらもう一度戻りたい」 「あとから付いていく自分の姿を俯瞰で見ているよう」 というような、幼いころを思い出す意見が多く出ました。 が、一方で 「これはこの句会(大人しかいない句会)で投句されているから“過去を懐かしんでいる”というような鑑賞になるが、誰が投句しているか分からない状態だったら小学生の素直な句と感じるのではないか?」というような意見も出ました。 恩田侑布子もこの意見に賛成とのことでした。 また、「ちちはは」は良いとしても「あにあね」まで平仮名にしてしまうのはやや作為的に感じてしまう、という意見が出ました。 あえて作為的にしたからこそ、小学生の素直な句には思えなかったのかもしれません。 とはいえ、指摘があった通り「句会の状況を見て、句を勝手に解釈してしまう」というのは句の本質をとらえ損ねる危険があるので、今後も注意していきたいと思いました。 次回の兼題は「涼し」「残暑」です。暦では秋ですが、現代の日本では8月下旬はまだ秋の実感よりも、夏がかげっていく実感の方がしっくりきますね。夏好きとしては、離れがたい気持ちでいっぱいです。(山田とも恵) 特選 貝風鈴カウンセリング始まれり 山本正幸 貝風鈴がカウンセリングの小部屋に吊るされている。白やスモーキーピンクのやわらかな色の薄い貝殻たちが透明な糸につづられて音もなき音、かそけき音をたてる。砂浜を裸足で歩くときのあの心地よさをからだのどこかが思い出すような音色(ねいろ)である。これはなんのカウンセリングだろう。深刻とまではいかないけれど、もやもやとした気の晴れない悩みごと、心配ごとの相談に来たのだろう。カウンセラーの話を聞く前に、揺れる貝殻のしずかに触れ合う音に癒されてゆく。こころはすでになかば静まって、これから対処してゆくべきことが夜明けの水のように感じられる。作者はカウンセリングの受け手であったかもしれないが、不思議にも掲句のデリケートさ、やさしさ自体がヒーリング効果をもっているようだ。A音の頭韻に、ラ行のリリレリが添って、調べに微妙な風と陽光がささめく。七月初めの梅雨の晴間。ゆれる貝殻のむこうに青空がみえてくる。 (選句・鑑賞 恩田侑布子)
7月15日 句会報告
7月2回目の句会が行われました。今回の兼題は「蜘蛛(の囲)」「植ゑ」「昼顔」。 恥ずかしながら「蜘蛛」が夏の季語であるということを初めて知りました。冬にも家の中で見ることはあった気がしますが、言われてみると梅雨の頃になると蜘蛛の巣に顔をつっこむ確率が上がる気がします。 「梅雨明け宣言」など聞かなくても身体がまず感じ取った季節感覚を取り戻したいものです。 さて、まずは今回の高得点句から。 廃線路尽き昼顔の浄土かな 杉山雅子 「風景がよく見える」 「栄えた後の静けさ、切なさを感じた」 「作者は昼顔の淡いピンク色を浄土の色と見たのかもしれない」という意見が出ました。 それぞれ句から読み取ったイメージは驚くほど一致していました。 恩田侑布子は、合評の皆の解釈が揃っていることからもとてもよく書かれているのはわかるが、美しい光景はすべて「浄土かな」で片付いてしまいがち。その光景を自分なりの言葉で捕まえて来てほしい。と激励していました。 一同それぞれ胸に刻む言葉でした。 続いて、今回の句会で話題になった句です。 きゆるきゆると自転車鳴るや梅雨曇 西垣 穣 「“きゆるきゆる”から梅雨の湿り気のある空気を感じる」 「自転車には一人で乗っている気もするし、子供を乗せているのかも?句の世界が広がって面白い」 「きゆるきゆるという音がちょっと不穏な感じがする」という意見が出ました。 恩田侑布子は、 「晴れ晴れとはしないが、雨も降らずに“なんとかもってる”、自転車もブレーキがうるさいが“なんとかもってる”、そして作者も…。 もってくれているんだから、儲けもんじゃないか、というような句だと思う。自転車も歳もすべてほころびた感じ。でも悪くないじゃん!というなんの理屈もない感受が句に命を吹き込んでいる」と鑑賞しました。 若輩者としてはとても勇気づけられる句でした。 次回の兼題は「ひまわり」「夏服」です。夏ならではの兼題ですが、月並みなことしかパっと浮かばないのでこれは気を付けなければならない兼題です。よく観察して自分なりの言葉を見つけたいと思います。(山田とも恵)
7月1日 句会報告と特選句
7月1回目の句会が行われました。 今回の兼題は「サングラス・夏の夕」でした。静岡市内は陽ざしを遮るものが少ないため、ガラにもなくサングラスが欲しくなってしまいます。 まずは今回の高得点句から。 すててこの論語嫌ひや夏ゆふべ 伊藤重之 「手ぬぐい、団扇、風鈴…昭和の世界観がパーッと広がった」とノスタルジーを感じた方が多いようでした。 また、あえて「論語嫌ひ」というところが「そう言いながらもついつい論語の勉強をしてしまう、昭和頑固親父のかわいい後ろ姿」をイメージさせ、ユニークという意見もありました。 恩田侑布子からは 「“すててこ”と“夏ゆふべ”の季重なりが気になる。 “すててこ”の面白さを生かせる言葉がほかにきっとあるはず」 と、いう意見がありました。 続いて、今回の句会で話題になった句です。 掌の豆腐捌きて夏の夕 杉山雅子 先ほどの「すててこの句」は男性から人気でしたが、こちらの句は女性に人気の句でした。 「豆腐を捌(さば)く」というところが珍しかったこともあり、この一語に対して色々な意見が生まれました。 例えば「捌くは男っぽく、手慣れている印象。夕暮れの豆腐屋さんの光景なのでは?」という意見がある一方、 「膨大な家事を捌くように生活する主婦が、手のひらでササッと豆腐を切って味噌汁に投げ込む雄姿なのでは?」という意見もありました。作者は自分の手のひらで豆腐を切っている時に句の着想を得たそうです。主婦の実感の句です。 恩田侑布子も 「“捌く”というところが夏っぽく効いていて、サバッとした感じがする。確かに冷奴なんかは切るというより、捌く感じがしますね」 と、主婦の実感がこもった鑑賞でした。 次回の兼題は「風鈴」「夜店」です。蝉の声も聞こえ始め、いよいよ夏本番。今年はどんな夏がやってきて、どんな句を作れるのか、夏休み前の子供のようにワクワクしています。(山田とも恵) 特選 苛立ちはけもののやうに夏野ゆく 山田とも恵 一句一章の句。一気に読ませる。「苛立つて」でなく「苛立ちは」とした擬人化が効果的だ。芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の「夢は」と同じ叙法である。芭蕉は上五で情景を提示したが、この句は暴力的に「苛立ちは」で始まる。そこに有無を言わせぬ苛立ちの感情と、若さゆえの動物的なエネルギーの発散がある。作者は現状に満足していない。吠えるように、夏草の茂る径(みち)を歩いて行く。言うにいえない懊悩が体性感覚にのりうつり、若いいのちの圧倒的な存在感がある。哀しみや寂しさの俳句は山のように詠まれてきたが、苛立ちの感情は新しい。ネガとポジのはざまのような夏野があざやかである。 (選句・鑑賞 恩田侑布子)
七月のプロムナード
(画像をクリックすると拡大します) 樸の七月の佳句を恩田侑布子が鑑賞していきます。 生命力が立ち昇るかのような夏空を、思い浮かべて楽しんでいただければ幸いです。(山田とも恵) ≪選句・鑑賞 恩田侑布子≫ かき氷食べて君等はまた魚 伊藤重之 不謹慎にも井上陽水の「リバーサイドホテル」を思い出してしまった。「ベッドの中で魚になったあと川に浮かんだプールでひと泳ぎ」というあの頽廃(たいはい)的な歌詞を。だがこの句は、昭和のスノビズムを揶揄した陽水とは対照的な若い健康さを持ち味とする。まだ脂肪がどこにもついていない十歳前後の少女たちはほっそりした魚のよう。かき氷を食べた後も平っちゃらで泳ぐ。少女らのさざめく笑いがいまにも聴こえそう。ぴちぴちした身体が享受する夏のよろこびが清潔にいいとめられている。K音の五つの響きが、澄んだ水とはじけるような肌にマッチして、この上ない清涼感をもたらすのである。 雲の峰登山者のごと君や逝く 藤田まゆみ 一読、衝撃の句。雲の峰も登山も夏の季語だが、前者が季語として盤石の存在感を示す。雲の峰を登攀(とうはん)するように「君」、すなわち愛する伴侶はこの世を旅立った。壮絶な最期だった。生前、山男であった夫君に連れられ、作者も不承不承ながら山によく登ったという。そのとき尾根の上にオブジェのような夏雲がかがやいていたに違いない。頑健そのものの人が、まさか六〇になったばかりで逝ってしまうとは。雲の峰を登って羽化登仙してほしいという願いをにじませつつ、この句のよさは何といっても虚実の迫真的な混交にあろう。あの日の登山が壮年の真夏の死の床にフラッシュバックする。あなたは死んだんじゃない。巨大な雲の峰を登りおおせたのよ。「君や逝く」にこもる妻の慟哭は、山男の天晴れな生き方を永遠に讃えている。 言ひたきこと口には出でず遠花火 戸田聰子 いちばん思っていることは、特に好きな人を前にすると口にしづらい。頭上に炸裂する花火ならば、音に紛れて目くばせもできよう。だが作者は、遠花火の眺められる場所に、その人とゆくりなくも居合わせたにすぎなかった。大切なことばは「いつも忘れていませんわ」であっただろうか。「夢でお会いしますわ」であっただろうか。中七が「口には出さず」であれば凡句だが、「口には出でず」で、にわかに秀句の気品を備えた。遠い甍(いらか)の上に音もなくはじける花火を、抑え続けた情念がいっそう鮮やかに切なく彩り浮かびあがらせるのである。ぎこちない沈黙の意味を、その人は果たして受け取ってくれたであろうか。
6月17日 句会報告と特選句
6月2回目の句会が行われました。今回の兼題は「短夜(みじかよ)・“田”の字を一つ入れて」でした。 梅雨入りしても今年は雨が少なく関東は珍しく水不足。かと思えば九州地方は集中豪雨。 季語が生まれた時代とはだいぶ自然の流れが変わってしまったのだと、寂しさを感じてしまいます。 句を通して、あるべき自然の姿を残して行けたらなぁと思います。 さて、まずは今回の高得点句から。 みる夢はひとつにしとけ明け易し 松井誠司 「欲張って夢を見ても、あっという間に朝が来てしまうから短夜の時期は注意せよ、という面白みがある」 「夢は寝てる間に見る夢のことだけでなく、将来の希望、夢のことを言っているのではないか?」 というような意見が出ました。 恩田侑布子も 「第一義は、夢をみたあと、また夢をみたら、短い夏の夜が明けてもう朝になって居た。夢はひとつでいいのにという思い。 第二義は、若いころから欲張っていろいろと夢を見てきた。ところが振り返れば、どれもみな完全に実現したとはいえそうもない。 そこで、われとわが身に遅まきながらつぶやく「みる夢はひとつにしとけ」と。 一夜の明け易さと、人生の短さの両義がかけられた二重構造の句。一読後の面白みのあとの、切なさが良い」 と鑑賞しました。 続いて、今回の句会で非常に盛り上がりを見せた句です。 短夜の取り逃がしたる一句かな 伊藤重之 満場一致で「分かる!」という声が沸き、俳句を楽しむ人にとっては「あるある」なエピソードのようでした。 「短夜のこの時期ならば、今(眠る寸前)思いついたこの名句を明朝まで覚えていられる気がする!と思いながら眠りについてしまうので、短夜という季語に合っているのでは」 という意見も出ました。 恩田侑布子からは「事」に終始してしまっている感じもするが「取り逃がしたる一句」という表現は面白いと思う、との意見でした。 また、「枕元にメモ帳とペンを置いて、取り逃がさないで寝ましょう」というアドバイスがあり、耳が痛い一同でした。 次回の兼題は「蜘蛛(の囲)」「植ゑ」「昼顔」です。兼題を通して新しい季語を知ることができるので、毎回とても楽しみです。 次回はどんな句が生まれるのでしょうか。 (山田とも恵) 特選 口笛を鋤きこむ父の夏畑 大井佐久矢 田畑に何かを鋤(す)き込む俳句といえば、次の師弟俳人の両句が思い浮かぶ。 残生やひと日は花を鋤きこんで 飴山実 荒 々 と花びらを田に鋤き込んで 長谷川櫂 ともに春の花びらを鋤き込む審美的な句である。 一転して、佐久矢の句は、弾けるようにかろやかな青春詠である。口笛を鋤きこむところに、父の若さとともに、趣味の菜園の匂いがする。夏畑の開幕を告げる口笛である。これから植えるのは、瓜や茄子などの苗だろうか。それとも種撒きなら、ハーブだろうか、枝豆だろうか。いずれにしても初夏の陽光が燦々と降りそそぐ。作者のふるさとが信州の佐久であることを知れば、たちまち浅間山の麓、広大な佐久平の景が広がり、父の口笛はいっそう涼やかに透きとおって感じられよう。 ...