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7月27日 句会報告

2022.7句会報4

2022年7月27日 樸句会報 【第118号】 今回の兼題は「炎天」「冷奴」「噴水」――残念ながら、リモート句会となりました。依然としてCOVIDー19という重荷を負わされており、ついシジフォスの神話を思い起こします。ゼウス神をも欺いた狡猾な彼は、大石を山頂へ押し上げる刑罰を永遠に繰り返させられました。人類もさらに長期にわたってこの辛苦に耐えねばならないのでしょうか。そんな中、リモートではあっても、俳句の紡ぎ出す無限の世界に浸れることは、この上もない幸せです。 特選2句、入選2句、原石賞2句を紹介します。 ◎ 特選  炎天や糞転がしの糞いびつ             芹沢雄太郎 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「炎天」をご覧ください。             ↑         クリックしてください   ◎ 特選  寄港地の噴水へ手をかざしけり              田村千春 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「噴水」をご覧ください。             ↑         クリックしてください   ○入選  菜園の薬味を選りて冷奴                金森三夢 【恩田侑布子評】 家庭菜園に精を出している。冷奴の時こそ、まかしとき!本領発揮だ。葱にしようか、青紫蘇もいいな。裏庭にまわれば、そろそろ茗荷も出ているかも。読者にいろいろ想像させてくれる楽しさがある。想像しているうちにひとりでに読み手は作者の暮らしの涼味を味わう。冷奴が食卓をはみ出し清廉な生活まで感じさせる。季語の見事な働きである。 【合評】 丹精の暮らし方がしのばれる。 「選りて」の措辞に菜園の豊かさと料理への心遣いが表現されています。   ○入選  湿布貼る肩のあらはや冷奴                古田秀 【恩田侑布子評】 肉体労働者の夕餉だ。父は木綿のランニングシャツ一枚になってあぐらをかいている。背中から見ると、サロンパス(トクホンという商品もあった)を、何枚もベタベタ痛い方の肩に貼っている。その肩は子どもの目からは、赤銅色に日に焼けてガッチリとたくましい。「でも、やっぱり痛いのかな」。ちょっと心配しながらも、たのしい遅めの夕飯が始まる。冷奴には生姜や細葱や鰹の削り節がたっぷり盛られていよう。晩酌も一本つくのだろう。昭和のなつかしい茶の間、電球と畳の匂いまでしてくる。 【合評】 口当たりの良い冷奴の涼し気な白さにほっと一息つく、肉体労働者の汗と笑顔が見えて来る。       【原】炎天下駆けぬく子らの呵々大笑               望月克郎 【恩田侑布子評・添削】 老いは感じないという人でも、炎天に立たされると参ってしまう。その点、子どもらは別の人種のよう。楽しみさえあれば水を得た魚のように笑いながら平気で走ってゆく。この句は「呵々大笑」という禅的な措辞をあどけない子らの笑い声に援用したのが出色。「炎天」と「呵々大笑」は相性がいい。が、画竜点睛を欠く一点がある。それが為に、途端に「呵々大笑」が空々しく浮いてしまった一字は、「下」である。「炎天下」でもね、という粘りが急に出てしまうのだ。粘りから離れ、カラリと「呵々大笑」しよう。切字一字で世界が変わる。 【改】炎天や駆けぬく子らの呵々大笑       【原】営業車まで噴水のひかり来る               古田秀 【恩田侑布子評・添削】 営業車と噴水の取り合わせは新味がある。ただしこのままでは、「まで」「来る」が説明っぽい。こんな時こそ切字の出番。「来る」を削り、噴水の白いひかりと涼しさが一挙に感じられるようにする。もう一つのやり方はもう少しカメラアイを絞って「まで」「来る」を両方消してしまう。 【改】営業車まで噴水のひかりかな    営業の車窓へ噴水のひかり 【合評】 少し離れた駐車場まで、噴水に揺れる光が届いている。炎天下の仕事で一休みしている人に噴水の涼が届いている様を上手く表現しています。   【後記】 入選句の「菜園の薬味」とは何の植物かと、会員が推理をはたらかせていました。また、前回の入選句「どの向きの風も捉へて三尺寝」には、昼寝に纏わるあれやこれやに座が盛り上がりました。暑中に涼を求める、小さな幸せこそが大きな幸せ。日本人は順応力に長けており、様々な工夫をもって、灼熱の時期も何とか笑顔で乗り切ってきました。分冊の歳時記のうち「夏」が最も厚いのも、わかる気がします。 (田村千春) ...

裸のまなざし―恩田侑布子「土の契り」 角川『俳句』2022年6月号21句より5句鑑賞― 

富士と波

   裸のまなざし                   ―恩田侑布子「土の契り」 角川『俳句』2022年6月号21句より5句鑑賞―         田村千春    あをあをと水の惑星核の冬     地球は、ある恒星の恩恵を一身に受けている。寿命はおよそ百億年、現在はその中ほどにあたるという壮年の太陽だ。太陽の落とし子、宇宙に青を煌めかせる地球の映像を見れば、誰もがこの美しさを守り継がねばと思うに違いない。しかし、現実には、人の手によって環境は汚染され、近年の気候変動につながった。COVID-19の蔓延にしても、一つの現れに過ぎないのだろう。多くの貴重な命が失われ、国家の枠を越えての連携が望まれるところであった。そんな最中、ロシアによるウクライナへの全面侵攻が開始された。戦争によって、私たちがさらに失おうとしているもの――それは「水の惑星」にほかならない。この特別作品が無季の句、永遠の冬といえる「核の冬」に始まっていることには重みがある。      筍であれよ砲弾保育所に    2022年2月24日、ウクライナの保育所にクラスター弾が撃ち込まれ、避難していた子供が死亡した。その後、戦闘は長期化の様相を呈し、軍人のみならず民間人においても犠牲者は増える一方である。せめて子供だけでも平和な場所に移してやりたいと願うが、望み通りには行かない。本来なら自然の宝庫である土地柄、子供たちは訪れた春の、そして初夏の恵みを享受し、ひと日に感謝しては安全な眠りについていたはずなのに。「筍であれよ」とは、すべての親たちの祈りであろう。    ゆく春へ擬鳳蝶蛾(あげはもどき)の開張す     子供は必ず試すと思うが、蝶の翅を抓んだり、そっと身に指をすべらせたり。そのたびに、思わぬ湿り気にハッとする。蝶は透明な体液を宿し、心門を経て胸部へ、触角や翅の先へと流れ込ませる。例えば鱗粉のうち異性を惹きつける役目を担う香鱗にまでも。いわば水によって宙に舞い、生命をつなぐことも叶うのである。翅をひろげる行為、「かいちょう」には様々な表記があるが、ここでは一般的な「開帳」でなく「開張」が選ばれている。「開帳」というと秘仏の扉を開いて拝観させる意にも使われるため、蝶の神聖さを強調し得るが、そういった高次化はむしろ避けたいという意図があったのではないか。また、作者には体内での水の漲りがつぶさに見え、それに伴う動作を純粋に表現したかったのかもしれない。春が逝くことで、私たち生き物は、水に満ち満ちた大地を手放さざるを得ない。いつ旱が訪れ、土はひび割れるか知れないのだ。この「擬鳳蝶蛾」は翳りを帯び、凄みがある。「ゆく春」に向けて引導を渡すかの如く、もしくはそれを体現するかの如く。     腐葉土や踵よろこぶ若葉雨  先の「あをあをと水の惑星核の冬」に話を戻し――地球は太陽の寿命から、数十億年の未来を予想し、「四季にたとえるなら生命誕生の春を経て初夏にある」と言っていいのだろうか? 否、現状に目を向ければ、すでに終焉に向かっているようにすら見える。この危機を抜け出すヒントが、掲句に隠れているのかもしれない。沈む踵をもって、柔らかく死を捉えた一句。若葉とともに雨の雫は尽きせぬ光となる。若葉と、腐葉土、そして水――不意に、死により培われた生があると、作者は気づく。懐かしい亡き人々に感謝を捧げ、自分もいつか土に返るという事実に、安らぎを覚えるのである。    うちよするするがのくにのはだかむし  紀元前の儒教の経典、『礼記』では、人間を「裸虫」としており、「毛虫とすら見なしてもらえないのか」と愕然。もっとも裸であるからこそ、わかることがある。平仮名のみから成る――この十七文字は、「うちよする」を枕詞とする駿河国に住まう俳人として、作者の覚悟を記したものだろう。人間は蝶のもつ鱗、鱗粉すら持ち合わせていない。だからこそ、大波をかぶるのも可能。それから受ける感動を、絵に描いたり、文字とすることも。後者は作者の天職である。今回発表された二十一句は、恩田侑布子の評論家たる、クリティシズムの側面をも強く意識させる作品群であった。八年がかりの思いを込めて『渾沌の恋人(ラマン)――北斎の波、芭蕉の興』を上梓したばかりの作者、その新著においても、いかなる権威にも阿らず、舌鋒鋭く批評を加えながら、ひたすら美を追究していた。師系は万物であり、自然である。地球の行く末に危惧を抱きつつ、眼差しはつねに至高のブルーへと据えられているのだろう。  

あらき歳時記 噴水

歳時記「噴水」候補1

  2022年7月27日 樸句会特選句     寄港地の噴水へ手をかざしけり                    田村千春  日本や世界を一周とまではいかなくても、時間のたっぷりした周遊の船旅である。まだ見ぬ港に船体が静かに入ってゆくときの心躍り。作者はしばしばその見知らぬ街の歴史を訪ね、くつろぎ、土地の心づくしの饗応に預かったのだろう。やがて乗船の時刻が近づいてくる。ひと時の風光を愛でた街、名残惜しい公園に噴水が涼しげに上がっている。もう二度と再びこの地を踏むことはないだろう。そう思った瞬間、ひとりでに「噴水へ手をかざし」ていた。永遠に若く美しい噴水に向かって、さようならをしたのだ。初めての遠い土地の噴水へのいつくしみは、ゆきずりのひとの真心にふれた遠い日の記憶も誘う。過ぎゆくものへの清らかな哀惜。                       (選 ・鑑賞   恩田侑布子)

4月3日 句会報告

2022.4-4

2022年4月3日 樸句会報 【第115号】 三月末、ソメイヨシノが満開になったと静岡地方気象台の発表があり、四月一日から三日間行われる静岡まつりにおいては、大御所花見行列も三年ぶりに復活しました。これは徳川家康が家臣とともに花見を楽しんだ故事にちなみ、装束姿で市民らが市街を練り歩くものです。あいにく本日は荒れた天気となりましたが、句会の始まる頃には風もおさまり、駿府城公園より遠からぬ会場に祭りの賑わいが伝わってきました。 入選3句、原石賞1句を紹介します。 ○入選  おほぞらの隅を借りたる花見かな                古田秀 【恩田侑布子評】 花見に行くと花筵をどこに敷こうか迷います。コロナ前の都会では、夜桜見物も午前中からブルーシートの陣地取りが行われたものでした。この句はそうした常識を一変させます。地面ではなく、「おほぞら」を、しかもその「隅を借りる」というのです。「大空」と漢字にしなかったのも神経細やかです。やわらかな春の空気と水色の空、溶けるような花の枝々が目に浮かびます。ほんのひととき、空と花から安らぎを得て、また花なき空に向かうわたしたち。人間は旅人なんだよと、やさしくささやかれる気がします。 【合評】 私などが花見をする時は、ついつい自分たちのグループが世界の中心にでもいるような気分になりがちなので、作者の謙虚な姿勢には目を開かれました。 視点を空に、というところ、俳味もあり、大きな景が心地好い。   ○入選  花月夜影といふ影めくれさう                田村千春 【恩田侑布子評】 「花月夜」は、五箇の景物にかぞえられる花と月を合わせもつ豪奢な季語です。松本たかしに「チゝポゝと鼓打たうよ花月夜」がありますが、むしろ花月夜の影といって思い出すのは、原石鼎の名句「花影婆娑(ばさ)と踏むべくありぬ岨(そば)の月」でしょう。たぶん作者の想念の中にある本歌もこの「花影婆娑(ばさ)と」ではないでしょうか。そこに加えた「影といふ影めくれさう」という初々しい発見が出色です。石鼎の漢文調の雄渾さに比して、この句は女性的な口調のやさしさを持ち味とし、溶けてなくなりそうな幻想美がモダンです。たかしと石鼎を踏まえながら、新しい春の感触をかもし出すことに成功しています。 【合評】 「めくれさう」という表現の妙。次に桜の花びらが散る姿を見ると、きっとこの句を思い出してしまいそうです。 感性が先行している。「めくれさう」でなく、もっと言い切ってほしい。   ○入選  掌にのる春筍のとどきたる                前島裕子 【恩田侑布子評】 今年は寒さが長引き雨も少なかったため、筍の表年とは名ばかりです。わが茅屋の竹藪もひっそり閑として、歩いてもまだ気配すらありません。店頭には皮付き筍が眼の玉の飛び出る値段で申し訳程度に並んでいます。そんな折しも、親戚あるいは友人から掘り立ての土つき筍が届きました。茹でて皮を剥くと掌に包めるほどの小ささ。姫皮の肌の柔らかさと可憐さに、料峭の竹林を踏みながら探し当ててくれた筍掘りの名人の姿が浮かびます。 【合評】 嬉しいお裾分けですよね、羨ましい。小さいのがまた美味しいのです。まさしく春のよろこび。 手で大切に包み込みたくなる。「ル、ル」の響きも楽しい。温もりの感じられる作品。   【原】春星を食べ尽くさむとやもりかな               芹沢雄太郎 【恩田侑布子評・添削】 面白い、そして新しい句です。家の窓に張り付いている蛾を狙っている守宮が、実は満天の春星を食べ尽くそうとしている。これこそ詩の発見です。しかし、守宮は夏の季語で、日本では春には出ないので、実態に合いません。常夏の国、南インド在住の芹沢さんの作品とわかれば、現地の空に見える星の名前にするのも一法でしょう。あるいは夏の守宮に焦点を絞るほうが、句がイキイキしそうです。 【添削例】星くづを食べ尽くさむとやもりかな   今回の兼題、それぞれの名句が、恩田によってホワイトボードに書き出されました。     雲雀・春の星・花  青空の暗きところが雲雀の血               高野ムツオ  火に水をかぶせてふやす春の星                今瀬剛一  咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり                虚子  またせうぞ午後の花降る陣地取                攝津幸彦 このうち最初の作品が連衆の話題に上りました。雲雀は垂直に上がり、急降下する、縦方向の動きが顕著な鳥、見ている側もどちらが天とも地ともつかなくなり、切なさを覚えます。恩田は「繰り広げられる詩的現実の緊密さ、これこそが現代俳句」と評しました。           【後記】 原石賞句はインドに赴任した会員の作品ですが、日本とかけ離れた環境に身を置きながら、「水が合った」というにふさわしく、秀句を立て続けに披露しています。考えてみれば、インド洋上を大移動するアジアモンスーンにより梅雨をもたらされる我が国、彼の国とのつながりは深いのでした。「皆さんの花の句を読み、日本に春が来ていることを実感しています。二年前に日本でコロナ禍のため家に籠っていた頃、飽きるほど眺めていたはずの桜ですが、こうやって離れてみると、すぐに恋しくなってしまうものなんですね。また俳句や季語に親しむことで、日本の季節の移り変わりに敏感となるだけでなく、海外の季節にも敏感になれている気がします。これほど自然に目を向け、身体感覚に訴えかけてくる文芸が他にあるでしょうか」とのコメントに、肯くことしきりです。 (田村千春) 今回は、入選3句、原石賞1句、△5句、ゝ6句、・5句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です) =============================  4月27日 樸俳句会 入選句・原石賞紹介   ○入選  サリーごと子ごと浴びたる春の波             芹沢雄太郎 【恩田侑布子評】 匿名の数多い作品の中にこの句があれば、国内でサリーを着たインド人とその子を見て詠んだ句かと思い、意味がよくわかりません。しかし四月からインドに赴任した芹沢さんの作とわかればピンときます。「インド着任」の前書きさえあれば、どこに出しても恥ずかしくない特選句になりました。インドの大地が句に大きな息を吹き込みます。サリーの赤や緑の原色を纏う赤銅色の肌と、その胸に抱かれる幼子がともにベンガル湾の春の波を浴びています。たぶん作者もご家族と一緒でしょう。この「春の波」の季語は、従来日本で詠まれたものと違って、大陸の陽光を宿しています。よろこびと生命力に溢れる力強い俳句です。     【原】もづもづと這ふ虫をりて春落葉                益田隆久 【恩田侑布子評・添削】 春落葉をよくみています。「もづもづと」のオノマトペが出色です。この句は「もづもづと這ふ虫」と「春落葉」ですでに出来上がっています。「をりて」が言葉数を埋めるつなぎめいていて気になります。 【改】もづもづと腹這ふ虫や春落葉 這う虫も春落葉も、春の地面までやわらかに生動しはじめます。    【原】春暑し彼方(をち)に研屋の拡声器                前島裕子 【恩田侑布子評・添削】 「春暑し」は晩春の季語ですが、地球温暖化のせいでしょうか、近年の日本の春は仲春からこの通り、いきなり夏になるようです。包丁の研屋さんは昔は店を構えていましたが、今は軽自動車からスピーカーを流しっぱなしにして住宅街を回ります。せっかく面白い発見を、無機的な「拡声器」で締めるのは感心しませんし、もったいないです。 【改】春暑し「とぎやァい研屋」近づき来    

3月23日 句会報告

2022.3句会報用中

2022年3月23日 樸句会報 【第114号】 今回の兼題は「彼岸」「卒業」「青饅」――まさに彼岸のさなかの句会となりました。春分を迎える頃に冷え込むのが常とはいえ三月中旬の寒さは例年以上に厳しく、北日本は豪雪に覆われました。さらに十六日には福島沖を震源とする烈震が発生し、亡くなられた方もいらっしゃいます。被害に遭われた皆様に心よりお見舞いを申し上げます。 特選句1句、入選句2句、原石賞3句を紹介します。 ◎ 特選  富士山の臍まで白き彼岸かな             塩谷ひろの 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「彼岸」をご覧ください。             ↑         クリックしてください   ○入選  卒業式音痴の友は右隣                島田 淳 【恩田侑布子評】 清新な希望をうたったり、厳かであったりする「卒業」の俳句としてはかなりの異色作です。卒業式で隣にいる親友が、最後の歌声を張り上げます。またしてもいつもの音痴ぶり、自分もついつられそう。オッと、こいつはもう明日からは隣にはいないんだ。そう気付いた時に、おかしさの中に込み上げる、今日を限りに会えなくなる別れの神妙さ。さびしさと笑いがないまぜになった感情の微妙さ。この「音痴の友」の盤石の存在感はどうでしょう。なんとも人間味あふれる俳句です。 【合評】 調子っ外れの歌も、もう聞けなくなると思うと価値を再認識する。誰よりも仲の良い友人なのだろう。 ただ感傷的なだけではない、こんな切り口で卒業をとらえるとは、面白い。   ○入選  ふるさとをとほざける地震雪の果                前島裕子 【恩田侑布子評】 ふるさとの山河を子どものころのように伸びのびと歩き回りたい、老親と春炬燵を囲んでゆっくりくつろぎたい。いつも胸の底にある願いは、またもや東北を襲った震度六強の地震に打ち砕かれました。三・一一以来、岩手に生まれ育った作者の望郷の念は強まるばかりです。座五に置かれた「雪の果」は、暖国に生まれ育った私には想像を絶します。垂れ込める雪空の長い冬が終わったと思いきや、また冴え返りふりしきる雪。春の終わりを告げる「雪の果」のなんと切ないこと。    【原】卒業歌止み数秒のしじま在り               猪狩みき 【恩田侑布子評・添削】 数多い学校行事のなかで、最もゆったりと進行するのが卒業式。全員起立して歌う卒業歌では、いつものお茶目はどこへやら、感極まって泣く子も少なくありません。その荘重な歌が止んだ後の静寂に思いを寄せる句です。惜しむらくは「止み」「在り」で説明臭が出てしまいました。万人の胸に畳まれた卒業式の講堂の空気感は、まさに「しじま」に任せたいものです。 【改】卒業歌止みたる数秒のしじま 【合評】 そういう雰囲気でした。音が止み、間をおいて次の音が、保護者席からパラパラ拍手が起きたりする。見守る側の優しい視線も感じられる。 その一瞬に何を思う。    【原】失敗せむ卒業からの迷ひ道               海野二美 【恩田侑布子評・添削】 原句ではなんのことかわかりませんでした。句会で「小さい時から優等生の子は小さくまとまって口うるさいが、出来の良くなかった子は卒業後面白いように伸びる」という作者の弁を聞き、同じ脱線組の私には腑に落ちるものがありました。一字変え、命令形にすれば、ユニークで裕か、おかしみあふれる人生讃歌になります。 【改】失敗せよ卒業からの迷ひ道 【合評】 現状は学生時代の志や理想とかけ離れているのだから失敗してもかまわないという気づき、積極的に足掻き抜いた果てにあの日の理想に近づけるかもしれないという希望、を感じます。 高校を卒業以降、自分の辿った道には悔いもある。でも「迷ひ道」との言葉に、「あれはあれでよかったのだ」と許された気持ちになった。あたたかく背中を押してくれる作品。    【原】四方山に飛ぶ燕をくぐりけり               芹沢雄太郎 【恩田侑布子評・添削】 二〇二二年三月、作者は建築の仕事でインドに着任、南アジア大陸での獲れたて俳句です。作者の弁には「インドで大量の燕が低く乱れ飛ぶ様を見て、世間という意味も含まれる『四方山』という言葉を引っ張ってきましたが、適切なのか不安になっています」と正直に書かれています。実は、単独で掲句に向き合ったときは〈八方へとぶつばくらをくぐりけり〉と日本の河空を高く飛び交う燕の情景に添削してしまいました。しかしインド大陸詠であれば、「大量の燕が低く乱れ飛ぶ」エキゾチックな状況を生かすべきでしょう。 【改】ここかしこ飛ぶ燕をくゞりけり   【後記】 本日は、国会において、ゼレンスキー大統領のオンライン形式での演説が行われました。振り返ると、先月の二十四日からロシアによるウクライナ侵攻が始まり、翌日には北東部でクラスター弾攻撃を受け、幼稚園に避難していた子供が犠牲となっています。その報道に、たしか禁止された武器であるはず、と思い、足元がゆらぐのを覚えました。何が現実で何が虚なのか? かけがえのない命に多くの人が手を差し伸べようとする、身近にある社会もいつまた覆されるか知れないのか? 前回の句会を前に、すっかり子供に関係した句しか詠めなくなってしまいました。そんな自分と引きかえ、他の会員はものを見極める目を捨てず、戦車を題材にした四作品も投句されていたことを、ここに記しておきたいと思います。それを読み、私たちの目、耳、手足、心は、気持ちを文字にする自由を守るためにある――そう気づかされました。 (田村千春) ...

1月9日 句会報告

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2022年1月9日 樸句会報 【第112号】 2022年(令和四年)の初句会。和服で参加された方もいらっしゃいました。 句会に先立って、新年お楽しみ福引会が行われました。恩田は染筆の短冊と特注の短冊掛のセットを出品し、ホテルのスイーツバイキング券や、竹久夢二のハンカチーフセットなど、夢のあるものが沢山。思いがけないものが当たって喜ぶ顔があちこちに…。 句会冒頭、第12回北斗賞準賞(文學の森主催)に輝いた古田秀さんへ恩田から花束が贈呈されました。恩田からの激励、会員の大きな拍手、当会で最も若い古田さんの今後への決意、と華やかな新年句会になりました。 初句会の兼題は「新年」詠です。 入選2句、原石賞2句を紹介します。     ○入選  雑煮膳娘と二人ほぼ無言                望月克郎 【恩田侑布子評】 親一人娘一人。片親の家族でしょう。お互いに「明けましておめでとうございます」とも言わないで、ただ黙って親のつくったお雑煮を黙々と食べています。胸の底では美味しいと思って、ありがたいような気がして。「膳」なので、いろどり豊かなお節料理も並んでいそうです。「ほぼ無言」が実にいい座五です。至って地味な作行に静かなお正月のしみじみとした味わいがあります。「雑煮椀」とせず「雑煮膳」としたところ、ある種の華やぎもあり、配慮が細やか。 【合評】 お正月、娘さんと向かい合っている様子が伝わってきます。これが「息子と」だったら全然違ったものになるでしょう。     ○入選  叱られたしよ筆圧つよき師の賀状                山本正幸 【恩田侑布子評】 勢いのあふれる初句の七音です。一気に真情を吐露したゆえの字余りは心臓が脈打つようでいいですね。先生の字の太くて強い筆圧は、作者にとって指導の厳しさと温かさにつながっています。師弟の間の愛情が一枚の賀状を通して確かに感じられる俳句です。 【合評】 上五の字余りが気になりました。 気持ちは伝わるが、余り新しさは感じられなかった。「先生に叱られる」という関係性がベタ。 熱血教師だったんでしょう。     【原】癖字ある友の賀状はもうこない                益田隆久 【恩田侑布子評】 ユニークな新年の俳句です。実際に会えない年はあっても、毎年、お正月には何十年も賀状で会っていた旧友です。その賀状には昔から独特の癖っぽい字が踊っていて、名前を見なくてもアイツだと、一目でわかったものです。今年の賀状の束は、めくってもめくってもアイツが出てきません。改めて本当に遠いところに行ってしまった実感がこみ上げます。ただし「癖字ある」は不自然な言い回しです。また、「友」と限定しない方が効果的でしょう。原句の口語を生かし、 【改】癖つよき文字の賀状はもう来ない こうすると余白がひろがります。   【原】凧はらからの声束ねつつ                田村千春 【恩田侑布子評】 面白い観点です。ただし、このままではリズムが弱々しく凧が落ちてきそうです。 【改】はらからの声束ねつつ凧 とすると、大空に凧が昇ってゆきませんか。 【合評】 光景がよく見えます。 下五の「つつ」と言い止して上五に返っていくところがいいと思います。 いや、「つつ」は流しすぎでしょう。 「はらから」がタコ糸の強さと合っている。 全体主義的、民族主義的なにおいを感じて採れませんでした。     [後記] 新年から活発な議論が飛び交い、いきなりトップスピードに乗った樸俳句会。 恩田の鋭く丁寧なコメントが議論を引き締めます。その一端は本句会報の恩田講評にあらわれています。句の弱点を指摘されることは参加者にとって励みになることです。 私事ですが、句作を始めて今年は8年目に入ります。以前の句と比べるとたしかに技法は上がったかもしれませんが、発想や視点などについては「自己模倣」に陥りがちであることを痛感しています。「自己模倣」から如何に自由になるかを今年の課題としたいと思います。 新型コロナウイルスのオミクロン株の感染者が急増して、いろいろなことの先が見通せません。県外の会員も含めたフルメンバーで句座を囲めることを只管祈る年始めです。  (山本正幸) ※ 樸会員によるアンソロジー「2021 樸・珠玉集」はこちらで読むことができます。 ※ 古田秀さんの第12回北斗賞準賞のお知らせはこちらです(恩田による抄出二十五句あり)。 今回は、〇入選2句、原石2句、△9句、ゝシルシ10句、・4句という結果でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)    ============================= 1月26日 樸俳句会 入選句および原石賞を紹介します。   ○入選  明け番や雑木林のライト冴ゆ               山田とも恵 【恩田侑布子評】 作者は宿直や警備などの夜勤が明けて家に帰る途中です。里山の道か雑木林の中を通る情景にポエジーがあります。曲がり角でクヌギや楢や椎の寒林にヘッドライトがさあっと差し込み、ことのほか青白い氷のように感じられた瞬間でしょう。スピード感のある光が冴え冴えと体性感覚に迫ります。「明け番」も「夜勤明け」などに比べ手垢がついていません。   【原】白さにも濃淡のあり冴えかへる                猪狩みき 【恩田侑布子評】 素晴らしく鋭い感性です。しかし、このままでは感覚の鋭さだけが主人公になってしまい、何もみえてきません。抽象的です。読者の目の前に白いものを広げて見せてください。紙や車にする手もありますが、布がいいのでは。雪では即きすぎです。 【改】白き布濃淡のあり冴えかへる 和服屋の店先で、白い絹を選ぶ時の微妙な白の濃淡と手触りを想像してもいいですし、花嫁衣装の白無垢を選んだ日の体験ととれば、さらに凛烈な印象を刻みましょう。「布」のほかはいわぬが花。   【原】家猫の帰宅はいまだ日脚伸ぶ               都築しづ子 【恩田侑布子評】 猫好きな作者は、あいつまだ帰ってこないよと、愛猫を待つともなく待っています。季語と相俟って、さりげない感情の襞が表現されかけていますが、「帰宅はいまだ」と「日脚伸ぶ」がやみくもにぶつかった感じで、嬉しいのか寂しいのか少し不安定です。一字変えればはっきりと切れが生まれ、感情の筋目がつきます。 【改】家猫の帰宅いまだし日脚伸ぶ 猫をうべなう気持ちが出て、句柄が膨らみますね。   【原】寒鯉や人待ち顔の紫煙かな                島田 淳 【恩田侑布子評】 作者は寒鯉のいる池か小川のほとりで人を待っています。所在なげに煙草を燻らせて。「紫煙」の措辞が効果的です。いかにも寒い日の午後を思わせます。水の中でじっと動かない鯉と人を待つ作者はあたかも同じ感情の中にいるように感じられます。水と空気と煙と衰えた日差しが薄い紫の帯になって棚引いています。いただけない点は「や」「かな」の初心者的二重の切字。落ち着きを無くしています。 【改】寒鯉に人待ち顔の紫煙かな こうすれば冬の午後が寒暮へうつろう様子も見えてきます。   【原】月冴えてカラカラ外れゆく琴柱                田村千春 【恩田侑布子評】 琴柱は今はプラスチック製ですが、昔は象牙や楓の枝で作られました。この句は江戸の浦上玉堂を思い出させます。岡山の上級藩士でしたが、五十歳で息秋琴と春琴を伴い脱藩。諸国を遊行しつつ中国伝来の七弦琴を奏し書画を残しました。中国文人の愛した「琴詩書画」四絶一致の境に達した日本を代表する文人です。川端康成が収蔵し国宝となった「凍雲篩雪図」は必見です。この句には玉堂を思わせるどこか脱俗の雰囲気があります。ただし、表現技法が叙述形態で流れるのが残念です。また「外れゆく」と、琴を人任せなのも気になります。 【改】月冴ゆとカラカラはづしゆく琴柱 寒月がいよいよ冴えわたると、琴を掻き鳴らすのをやめ、あとは山月にまかせます。琴柱を外したあとの琴の弦が寒月光に浮かび、余韻が深まります。    

 永遠の碧瞬   ―恩田侑布子「 碧瞬」より十句鑑賞―

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         永遠の碧瞬                        ― 恩田侑布子「碧瞬」より十句鑑賞 ―                          田村千春    金色(こんじき)のたまゆら深し夏の蝶     春の蝶と比べ翅が大きく、悠然と羽ばたく夏の蝶。空の彼方へ消え去るまで、誰もがつい見入ってしまいます。「たまゆら(玉響)」は勾玉同士が触れ合う音を指し、転じて「かすか」「一瞬」の意味をもつ言葉。「金色のたまゆら」とは、なんと妙なる表現でしょう。刹那でありながら心に刻み込まれる、あの美しさは、たしかに幸運を約束する勾玉を重ねたくなりますね。「こんじき」の二つのK音に、翅のすれ合う音、こぼれる光を感じます。      手鏡のかはる代はるの涼しさよ     夏、心ときめくイベントに彩られる季節。たとえば花火大会。打ち上げを待つ人々の中に、「手鏡」の主もいるのかもしれません。思いを寄せる人とようやく訪れたのに、なかなか会話が弾むとまでは行かず。頬の火照りが気になり、時々、鏡を取り出しては、さり気なくチェック。そのうち相手が覗き込んできたり、どうにか会話もほぐれてきたようです。鏡に映り込む二人の背後の空はいかにも涼しげ。こと座のベガがひときわ明るく瞬いています。      とことはの初日ありけり夏休    子供の頃、宿題も山ほどあるし、普段できない体験も色々としてみたいし、夏休みは足りないと不満でした。大人になって思い返すと、「常」の字をあてる「とことは」(永久に変わらないさま)なる形容がしっくり来る、輝かしい日々であったことに気づかされます。中でも「初日」。そういえば毎回、幕開けには何でも成し遂げられる気で、大きく構えていましたっけ。「ありけり」という、この詠嘆には深く共感します。      星屑に吊られてありぬハンモック     ハンモックのある部屋で、幼友達と遊んだ日、船乗りになり、七つの海を渡っている気分でした。今でも時々欲しくなります。もし大空の下にあったら、隣に大切な人がいたとしたら、とても寝てなどいられない。「星屑に吊られ」た場所で交わされる一語一語、少しの衒いもなく、煌めきながら発され、気持ちをより通じ合わせてくれる。一人なら、まさに空に抱かれている心地に。宇宙にあっては一点にも及ばぬ自らをみつめつつ、安らぎも覚えるはず。  汝が筆は青芒かと問はれけり    作者は真夏の芒原を見つめ、思いに暮れています。誰にも打ち明けられない青春の悩みに、絡め取られてしまいそう。それは文字にもしづらいのです。どうしたらいいのか? やがて、「青芒」が脛を傷つけるのにも構わず、歩き始めました。いつか道は開けると信じ、前へ進みます。痛みを伴う「青」――しかし、「そんなものを支えとするつもりか」と問われたなら、きっぱりと頷くのでしょう。そのしなやかな強さにエールを送りたい。    黒き龍つがへる梁の涼しさよ   「つがふ(番ふ)」とは「対になる」の意、「梁(はり)」は屋根を支えるため横に渡した材木。寺社などで、梁に龍が彫ってある建物が実在するのか、それともイマジネーションの生み出したものか。いずれにしろ、実に深遠なる「涼しさ」の句。南北朝時代の中国の画家、張僧繇に関する伝説 が浮かびます。寺の壁に四匹の白龍を描くよう依頼された張は、あえて目を入れなかった。それを入れたなら、生命を与えることになると、彼は知っていたのです。その証拠に、目を描き加えられた二匹はたちまち空高く舞い上がり、姿を消してしまいました。そう、「画竜点睛を欠く」とは、「肝心なものが足りない」と貶めているのではない。「完璧であるからこそ余白を残すべきである」という、句作にも通じる教えを表したものかもしれません。めぐりめぐって、白龍が今は「黒き龍」と化し、梁を護っているとしたら、こよなく愉快。ちなみに張のいた王朝の名は、「梁(りょう)」です。      出はいりは四足なりぬ蚊帳の口     蚊帳の中は不思議な世界、子供時代が閉じ込められています。「四足なりぬ」には、思わず膝を打ちました。あの夜に溶ける緑色は、夢との境界。四つ足でくぐるにふさわしい。親の目から見ると、蚊帳は子供を守ってくれるもの。そっと裾をもたげ、健やかな寝息に聞き入る時も、四つん這いになっています。俳諧味に富むとともに、心あたたまる作品。    つくも髪花からすうり瞬けば  「花からすうり」を山道で見たことがあります。晩秋の季語である「烏瓜」、あの朱色の実からは想像できない、繊細な白い花弁。夏休み、泊まった宿の近くで、朝、しぼんでいるのを見かけました。暗くなってから開くと聞いて、夕食を終えるや再び観察に。縁がレースのようになっており、闇に浮かび上がる幽玄そのものの美にぞくりとしました。「つくも髪(九十九髪)」は老女の白髪、またその老女のこと。平安時代の作者未詳の歌物語、「伊勢物語」では、主人公(モデルは在原業平)が老女に懸想され、「もゝとせにひとゝせたらぬつくもかみ我をこふらし面影に見ゆ」と詠んでいます。愛を乞われれば、与えてやらないでもないという自信満々な若者の顔が覗く、この和歌を踏まえたものかはわかりませんが、句にも恋の匂いが。相手の情けに縋るしかない、そんな淋しい恋かもしれない。とはいえ、業平ならずとも、凄みを秘めた軽やかな調べには、銀糸のごとく捕らえられてしまいそう。思いのなせるマジックです。    碧玉の恋あり日本川蜻蛉  一般に「蜻蛉」は秋の季語、秋津とも呼ばれます。「川蜻蛉」はもっと早く見られるので、三夏の季語。本州の古称に「秋津島」もあるくらい、蜻蛉とこの国は縁が深い。中でも「日本川蜻蛉(ニホンカワトンボ)」は、名からもそのことを髣髴とさせます。湿原などで、ゆるやかな飛び方をする種です。雄はバリエーションもありますが、たいてい翅が橙色、縁に入った紋は真っ赤と美しく、体は白みを帯びている。雌は翅こそ無色、紋も白と地味ながら、翠色の体はとにかくメタリックで綺麗。なんとも雅びやかな装束、貴人を思わせます。平安貴族は女性は十二単、男性も狩衣に裏地を付け、重ねの色目を楽しむなど、お洒落に手を抜かなかったらしい。ひるがえって現代人の服装は機能優先で、ジェンダーレスに傾いてもいます。古今和歌集の恋の系譜を継ぐ者は、間違いなく、ヒトよりも、ニホンカワトンボですね。ずっと美しい姿を見せ続けてくれますように。    口紅をさして迎火焚きにゆく  「迎火」は盂蘭盆に入る夕方、霊を迎えるために焚く火ですが、この句では、亡くなったのは恋しい相手に違いありません。彼に見せたくて口紅をさす。おそらく命を失ったのはかなり前。しかし、作者は盆が近づくたび、彼岸に我が身の半分を置いているような、不安定な気持ちになります。仕来りにしたがって体を動かすことで、何とかそれを紛らせているのでしょう。口紅の赤は、現世に自分の心を留まらせるよすがになるのかもしれません。遺された者は、盆の最後の夜には送火を焚かねばならない。生きて行かねばならないのです。闇の中の一点の赤が哀しい、「碧瞬」の最後を鮮やかに締める一句。 「碧瞬 十六句」はこちらです。           ↑       クリックしてください

11月7日 句会報告

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2021年11月7日 樸句会報 【第110号】 昼過ぎには雲間にサックスブルーがこぼれ、雨意もすっかり払われました。久々に戻って来られたメンバーを交えて、心躍る句会の始まりです。ちょうど立冬。次回は冬季で詠むのかと思うと、日差しがより一層いとおしく感じられます。 兼題は「新蕎麦」「猪」「草紅葉」――いずれも晩秋の季語ですが、後に載せるそれぞれの例句のうち、「猪鍋」や「山鯨」は既に冬の季語。ちなみに、「蕎麦掻」「蕎麦湯」も冬の季語となります。美味しそうなものばかりですね。 特選句、入選句、原石賞の一句ずつを紹介します。 ◎ 特選  彫るやうに名を秋霖の投票所            古田秀 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「秋霖」をご覧ください。             ↑         クリックしてください     ○入選  小三治の落とし噺や草紅葉            萩倉 誠 【恩田侑布子評】 さきごろ八十一歳で亡くなられた人間国宝の噺家、十代目柳家小三治さんへの追悼句です。小三治さんは、俳句を愛好する「東京やなぎ句会」のメンバーでもありました。作者は小三治贔屓だったのでしょう。芸にいのちを賭けたひとの高座をつらつらと思い出しながら草紅葉を踏んでいます。噺に登場する長屋の誰れ彼れも、郭の花魁も、幇間も、みな草紅葉のように胸にせまり、いとしくなります。 【合評】 渋く落ちました。 語り口から生み出される世界。自分もそこへ引き込まれ、草紅葉として聴き入っている心地になる。 落語と草紅葉は確かに合っている。ただ、小三治でなくて他の噺家でもいいのでは? 追悼句であると前書きを付けてはどうか。 いや、「草紅葉」といったら、落とし噺の名手である小三治しかあり得ない。前書きも不要。     【原】「げんまん」の声こぼれたる草紅葉                田村千春 【恩田侑布子評】 「草紅葉」の兼題に、ゆびきりげんまんをもってきた感性がすばらしいです。弱点は、「こぼれたる」の連体形が草紅葉にかかること。切れをつくりたいです。 【改】「げんまん」の声のこぼれし草紅葉 こうすると、「指きりげんまん」が、過去のあの日あの時の忘れ難い声になり、草紅葉のしじまのなかにいつまでも余情となって残ります。すばらしい特選句になります。 【合評】 幼い頃の約束事は、大人から見ると他愛ないものが多いとはいえ、いたって真剣にかわされる。草紅葉と響き合うし、光景が美しい。 「げんまん」と平仮名だから子供同士とは思うけれど、親と子が唱えている声のような気もしました。 子供の会話を題材にした句というと既視感がある。   サブテキストとして、今回の季語の名句が配布され、各自が特選一句、入選一句を選句しました。     新蕎麦・走り蕎麦  新蕎麦やむぐらの宿の根来椀               蕪村  新蕎麦を待ちて湯滝にうたれをり               水原秋桜子  もたれたる壁に瀬音や今年蕎麦               草間時彦    猪・猪垣・猪道 (秋)  猪の寝に行かたや明の突き               去来  手負猪頭突きて石を落しけり               山中爽  猪垣の中やびつしり露の玉               宇佐美魚目    猪鍋・牡丹鍋・山鯨 (冬)  ゐのししの鍋のせ炎おさへつけ               阿波野青畝    山鯨狸もろとも吊られけり               石田波郷    二三本葱抜いて来し牡丹鍋               廣瀬直人    草紅葉  家なくてただに垣根や草紅葉               松瀬青々  草紅葉焦土のたつき隣り合ふ               幸治燕居  泥地獄とぼしき草も紅葉せる               首藤勝二  好きな絵の売れずにあれば草紅葉               田中裕明   連衆の人気を集めたのは、次の二句です。  もたれたる壁に瀬音や今年蕎麦  好きな絵の売れずにあれば草紅葉 「もたれたる…」の「今年蕎麦」には、食欲を掻き立てられると評判でした。すがすがしい空気、煌めくせせらぎと水の香、蕎麦を打つ音――まさに五感が悦ぶ作品。伊豆の人気の蕎麦処を思い浮かべましたが、名店ひしめく信州かも。今か今かと待ち受ける、その場にいたら、瀬音より大きな音でお腹が鳴ってしまいそう。 「好きな絵の…」は、お気に入りの絵を目当てに通い詰めている画廊へ、足早に向かう人か、あるいは、「よかった、まだあった」と見届けたのち、帰りの路地をたどりつつ、「ほんとは買いたいんだけど…」と溜息をついている人でしょうか? 道端の草の紅いろが目に留まり、絵への愛着は増すばかり。市井をただよう哀歓をそっと掬い上げる、こんな優しい「草紅葉」もあるのですね。           【後記】 本日は、まず恩田より「体験をすぐに五七五にせずに、一回肚のそこに落とし込んで、その人なりの言葉にしているのが共感を呼ぶ句です。読むたびに新たな感動を誘われます」と心得を説かれ、全員の背筋が伸びました。 範とすべき作品として、先ごろ刊行された恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)が浮かびます。同書をひもとけば、「珠玉句を一粒ずつあじわう楽しみ」と同時に、「いのちの一筆書きをたどる〝俳句小説〟の愉悦」にも浸ることが叶うのですが、それは、作者が「身體全部で俳句をやった」からに他なりません(「 」内:恩田解説――やつしの美の大家 久保田万太郎――から引用)。 生木のままではない、自らの中で熟成させたのちに昇華されたものだからこそ、当時の色、音、匂いまでもが、生き生きと立ち上がってくるのかと納得しました。      (田村千春)                             今回は、特選1句、入選1句、原石賞1句、△3句、ゝ10句、・8句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です) =============================  11月24日 樸俳句会 特選句・入選句・原石賞 ◎ 特選  銀杏落葉ジンタの告げし未来あり             田村千春 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「銀杏落葉」をご覧ください。             ↑         クリックしてください      ○入選  月蝕をあふぐ落葉のスタジアム             見原万智子 【恩田侑布子評】 十一月一九日金曜夜、部分月食が見られました。私も山の谷間で、山の端にうかぶ薄曇りの月蝕をいまかいまかと見上げていました。作者はスポーツか、音楽ライブか、いずれにしても巨大なスタジアムの観客として月蝕を仰いでいます。「落葉の」という限定がきわめて効果的です。野外場の周りは樹木が多く、そこから落葉がスタジアムの客席まで吹き込んでくる光景が想像されます。足元もコンクリの通路に色とりどりの落葉が散り敷いていることでしょう。人間の地上の祭典と天体のショーがひびき合っています。     【原】小夜時雨ペダルふみこむ塾帰り                鈴置昌裕 【恩田侑布子評】 なかなかいいところを捉えています。季語は下にもってゆくとよりいっそう余情が出ます。また「塾帰り」と「小夜時雨」がやや重なるので、「塾の子」と主語を先に明かしましょう。 【改】塾の子のペダルふみこむ小夜時雨     【原】葉脈は骨格となり朴落ち葉                林 彰 【恩田侑布子評】 発見がある句です。朴落葉の来し方行く末をしっかりとよく見ています。朴の木は五月、万緑のなかに、白い大きな芳しい花を冠のように咲かせます。そして、落葉は、ひときわ大きく、茶色の地味なそれは雨風とともに存在感を日々増してゆきます。まさにそれが朴の「骨格」をなす葉脈です。私は一昔前に西伊豆山中で、その骨格の葉脈だけが見事なレース細工のようになった一枚の朴落葉に感動したことがあります。このままでは経過途中です。結果だけを表現しましょう。 【改】葉脈はつひの骨ぐみ朴落葉 こうすると、朴落葉の気品まで感じられませんか。     【原】落ち葉踏み子らの走るや声高き                望月克郎 【恩田侑布子評】 落葉などほとんど眼中になく、公園や校舎裏を走り回る冬でも元気な子らの声。悪いところはないですが、俳句としての魅力がいまいちなのはなぜでしょうか。作者の感動の焦点が那辺にあるか、つかめないからです。「落葉を踏んで子どもたちが走っているよ。声も高く元気だよ。」と見たままの報告に終わっていませんか。話の順番を変えるだけで変わります。 【改】声高く子らの走るや落葉踏み 子どもらと、踏みつけられる落葉の対比がはっきり出ます。そこに、蛇笏の「落葉ふんで人道念を全うす」ではありませんが、元気にかけまわる子らを底で支えながら去ってゆく、声なきもろもろの存在がじわりと伝わります。詩の核心が誕生します。     【原】猫を撮る落葉に膝は湿りつゝ                塩谷ひろの 【恩田侑布子評】   猫好きな作者であることがわかります。しかも美しい猫なのでしょう。三十六歳で死んだ夭折の画家菱田春草の「黒き猫」(明治四三年)が目に浮かびます。ただしこの句はこのままでは、季語の「落葉」より、下五の「膝は湿りつゝ」のほうが目立ちます。座五は抑えましょう。 【改】猫を撮る落葉に膝を湿らせて こうすると、一匹の猫と向き合う静かな空間が立ち上がります。     【原】ふつくらな猫に寄り添ふ小春空                萩倉 誠 【恩田侑布子評】 副詞「ふっくら」は通常は「と」を伴います。同じ意味ですが冬の日にふさわしい微妙に陰影のある「ふっくりと」に変えてみましょう。季語も「小春空」ですと、冬晴れの空へ猫の毛の質感が消えて失くなりそうです。猫のからだのやわらかさを感じさせつつ、このあたたかさや慰安が、つかの間のことであることを感じさせる季語を斡旋し、調べをととのえましょう。 【改】ふつくりと猫に寄り添ふ冬うらら     【原】茶の花のけぶりて白き水見色                益田隆久 【恩田侑布子評】 静岡の奥座敷「水見色」村は、その美しい地名とともに、朝晩の霧の深い本山茶の茶処としても有名です。春は桜、夏は螢や河鹿が棲む、たいへん風光明媚な山里です。けぶりてまではいいですが、「白き」が惜しい。言わでもがなのことを言ってしまいました。ここが、ただの五七五か、俳句という詩になるかどうかの分かれ目です。水見色という清冽な地名を活かすために、朝や午前の日にかがやく清冽な茶の花の光景を描き出しましょう。すばらしい風土賛歌になります。 【改】朝にけに茶の花けぶる水見色